この1ヶ月の間に新田次郎、藤原てい、藤原咲子、藤原正彦らの本を集中的に読んだ。敗戦時の満州からの引き揚げの悲惨な体験が彼らのその後の生活に様々な影響を与えている。それをそれぞれが異なる表現で書いている。それらを読み解くのは楽しい。
ここには掲示板にのせたいくつかの感想文をまとめていますが、新しく書き加えた感想文も混じっています。
似たもの夫婦 投稿日:2015年 2月 3日(火)
2月2日は「夫婦の日」というらしい。むろん語呂合わせ。
関連して「よい夫婦の日 4月22日」、「いい夫婦の日 11月22日」、「夫婦の日 毎月22日」などがある。といってなにか変わったことがあるわけもないが、私たちは似たもの夫婦だなと思う出来事があった。
(一部削除)
たまたま藤原てい著「わが夫 新田次郎」(新潮社、1,981年)を読んだ。この作家夫婦は、お互いを必要としているのに喧嘩ばかりしている。でもどちらも変わり者で似たもの夫婦だと好感を持った。
藤原ていが、新田次郎と結婚してから夫と死別するまでの回想記である。娘の藤原咲子が「父への恋文」(山と渓谷社、2,001年)を書いている。2冊併せて読むと面白い。母娘で同じことをまったく違う感覚でとらえていることがあり興味深い。
満州からの引き上げの過酷な旅で体をこわし藤原ていは心身ともに大きな痛手をうけ病床につく。一方娘は引き上げの際の栄養失調や病気の母に全くかまってもらえなかったことから言語の発達がかなり遅れそだつ。病床の母をこわごわ眺めながらも、大好きな父が母が死んだら悲しむだろう、と父のことのみを思う。
ていは自分の体調がもう元に戻らないと覚悟し、遺書として大学ノートに引き揚げの記録を残した。そしてそれが、『流れる星は生きている』という本になり、その後ベストセラーとなる。
『流れる星は生きている』を咲子は中学生になる少し前に読み、「咲子はまだ生きている。咲子がまだ生きている。でも咲子が生きていることは必ずしも幸福とは思えない・・・・・・。背中の子を犠牲にして、2人の子、正広、正彦を生かすことが・・・・」という文書を見つけてしまう。この数行の文を読んだ後の絶望感は母への不信感となり、父への遺書を残し自殺へ突き進む。父の懸命のケアで立ち直るが、母を批判的に見ているのがよくわかる『父への恋文』であり、父が母を優先することにさえ不満をもらす。
『わが夫 新田次郎』では「自家製の恋人」の章に新田次郎が咲子を恋人のように溺愛する様子を描いている。溺愛ぶりを心配し娘の縁談を強引に進める母という構図が、娘のいないTNにとっては興味深い。
その他にも多数のエピソードが書かれていて楽しかった。そして彼らも似たもの夫婦なのだと感じられた。
藤原ていは今、90歳をはるかに越え、認知症でもう表には出てこない。藤原咲子の『母への詫び状』も読んでみたいなと思っている。

『母への詫び状』 藤原咲子著、山と渓谷社、2,005年
この本の書評としては下のもので十分だとは思う。
(BOOKasahi.com)
新田次郎と藤原ていの長女が赤裸々に綴(つづ)った半生記。中国東北部で終戦を迎え、母は生まれたばかりの著者を背負い、二人の男児の手をひき、北緯38度線を越え帰国した。引き揚げの壮絶な体験記『流れる星は生きている』は、幼子を守り抜いた母親の強靭(きょうじん)な精神と愛情を記したとしてベストセラーになった。
しかしこの本を12歳のときに読んだ著者は、衝撃を受ける。「背中の咲子を犠牲にして二人の兄を生かす」の表現などから、「私は愛されていなかった」と母への不信感を募らせる。
先年、同書の初版本を偶然書庫で見つけ、著者に宛(あ)てた「ほんとうによく大きくなってくれました」の母の温かい言葉に、凍えた心は一気に溶けた。今は認知症に侵された母に著者は絶叫する。「逝ってはダメ。やっと戻ってきた咲子だよ。もう少しそばにいたいの」。母との確執を克服するまでの魂の軌跡は、読む者を浄化するだろう。
[評者]多賀幹子(フリージャーナリスト)
『父への恋文』(藤原咲子、山と渓谷社。2,001年)と『わが夫 新田次郎』(藤原てい、新潮社、1,981年)を読んだ今、『父への恋文』から4年しか経たない間に、母との確執を克服したとする本筋の話以外にも気になることがいくつかある。
1.藤原ていは『流れる星は生きている』の出版や映画化に際し、新田次郎は貧乏生活を抜け出すために渋々賛成したと書く。本の内容についての新田次郎の役割には夫婦共に一切触れていない。だが、その本を再読した咲子は新田次郎がこの本の構成を手伝ったとすぐに確信する。少なくとも編集者の役割を果たしていたと。そしてあとがきを読み、母が母の日記をもとに書き上げ、事実をもとにした一編の創作であり、小説として書かれたのだと、やっと納得する。それまでに40年以上の年月が必要だった。
母と咲子の関係が主題の本なのにどんな場面でも父・新田次郎がでてくる。『父への恋文 2』でもよかったような。
2.咲子の結婚生活が気になる。「私は、いくつかの恋をして、同数の失恋をして、結婚をして、その結婚にも失敗して、何十年と経た現在振り替える、何ひとつとして確かなものが手に握られていないことに愕然とする。」と書いている。
咲子が大学4年生で失恋した時、ていが無理矢理結婚話をすすめる。そのまま押し切られ結婚し子供もできた。しかし、夫を理解出来ず悩む。そんな時、「無理をしなくてもいいよ、父」というメモをみる。その時、すでに精神的、肉体的限界に達し、体重は激減していた。(多分この時に離婚し:これはTNのかってな想像でした)実家の近くの吉祥寺に移り住む。新田次郎は娘を気遣い頻繁に娘の家を訪れている。メモを残した2年後新田次郎は心筋梗塞で逝った。
咲子が『父への恋文』をようやく出版できたのは父の死後20年経ってからだった。
WEBでも色々調べたが、咲子の夫や子供がどうなっているのか不明のまま。『わが夫 新田次郎』には、吉祥寺の娘の家を買ったのは藤原ていで、「昭和53年春、私たちは又自宅の近くに家を買った。それも大きな借金をかかえ込んで。」と書いている。そこへ娘一家を横浜から呼び寄せた。新田を喜ばすために。新田は毎日、散歩の帰途必ずそこにより、5歳と2歳の孫に昔話を一席話したという。ていが娘の夫への悩みを知っていたのかどうかは不明。
3.父が捕虜収容所に送られたため、母は数多くの死体が横たわる中、一人で幼い二人の兄の手を引き、生まれたばかりの咲子をリュックの中に隠して、命からがら引き揚げ船に乗り込んだという。咲子や二人の兄、それぞれがその時の恐怖を異なる形で記憶している。
咲子は、ほどけかけたリュックの隙間から見えた北極星を覚えていて北極星を見るのが恐怖だった。リュックの白いひもがトラウマとなり、運動会のゴールの白いテープの前で立ちすくむ。
次兄・正彦は、今も川を渡らないし泳がない、という。
長兄・正広は、新田の死後、次兄から旧満州への旅が発案された時、「そういう感覚が俺にはわからない・・・・」と憮然とした表情で吐くように言ったという。
親たちにもむろん苦しい記憶がある。ていは、「この三人の子供達に私たち夫婦は、引きあげのことは、ひとことも話してやらなかった。いつの間にかそのことは禁句になってしまっていた。心の底流には、いつもそれを持ちながらも、その傷痕はあまりに深すぎて、日常の平和な生活の中で、心して黙殺していたのである。」と書いている。
4.藤原てい、なかなかの人だと思う。最初は料理が下手でちょっとがさつい人のような感じをもったのだが、男性的な決断力、行動力があり夫を深く愛した素晴らしい女性のようだ。
凄い女性だなと感じたのは、例えばまとまった収入を得たときさっと家が買える決断力。また、夫の死後、その遺志を尊重するためとはいえ、スイスに出かけアイガー・ユングフラウ・メンヒが一望できるクライネ・シャディックに遺品を埋める。その時、記念碑を建てると決意しスイス政府と3年がかりの交渉の後に実現する。(そんな事情を知っていたら先年スイスに行ったときに訪れておきたかったと悔やまれる。私たちはその周辺の花に気をとられ時間ぎれで新田次郎記念碑はパスしていた。)
また私財を全て投げだすつもりで文芸家協会に新田文学賞を設立を願う。文部省の許可も得た。新田次郎への思慕の深さに圧倒される。
その人が何故娘の深い心の傷を感じることができなかったのだろう?
藤原(新田)一家はそれぞれが『流れる星は生きている』の体験を原点として、精一杯生きたし生きている。もう少し彼や彼女たちの本を読みその生き様を見てみようと思う。
流れる星は生きている 2015年 2月19日
『流れる星は生きている』
藤原てい、中央公論社、1984年
重たくてしんどいと分かっているので中々手にできなかったが、新田次郎・藤原ていを知るためにはこの本が原点なので思い切って読み出した。一気に読むのはしんどくて三日かけて読了。
3人の子どもを連れて、満州(中国東北部)から引き揚げ、朝鮮半島の38度線を越え、釜山から引き揚げ船にのり博多へ、そして故郷の長野県諏訪地方へ帰りつくまでの壮絶な行程の記録です。
新田次郎は、新京の南端にある南嶺(なんれい)の観象台(気象台)に勤務。1945年8月9日の夜、夫は、まだ仕事があると新京に残り、ていは3人の子どもを連れ引き上げの旅に。長男の正広は6歳、次男の正彦は3歳、長女の咲子は生後1か月。
ていらは「観象台疎開団」と自らを名づけ、汽車の中では、集団行動を取る。北朝鮮北部の宣川で列車を降ろされ、宣川農学校の校舎に収容され、そこで、8月15日の終戦を迎えた。
8月18日の夜、新田を含む8名の男たちが家族に合流。その後、8月中に、38度線を境に交通が遮断され、平壌以南へは列車が行かないという連絡がもたらされる。
10月、18歳から40歳までの日本人男子が汽車で平壌へ送られることになる。新田はシベリヤへ送られることも予想していた。
10月28日に、新田は汽車で旅立つ。1月、日本人学校が開校。
2月に入ると、日本人の男たちが引き揚げて来るようになるが、ほとんどが死ぬために帰って来たようなもの。正彦が肺炎に。 新田が、八路軍の雑役夫に雇われ、発疹チフスにかかって八路軍の病院に入院したと聞く。
5月15日、日本人解放のニュースが入り、配給の米が停止された。日本人の中でも、貧富の差ができ、お金がなくなる日本人も出てきた。連日、日本人会本部に各団体の団長、副団長が集まり、朝鮮の地図を開いて、引き揚げ計画を話しあった。しかし、裕福な団体は、案内人を雇うなどして、独自に出発していき各団体が浮き足立つ。
観象台疎開団から、子どもがいない身軽な人など12名が脱退。残留組は18名となり、ていは副団長。8月1日に、平壌へ向かう汽車に乗る。平壌に着き三日目に、そこからまた、貨車で新幕まで移動。貨車を降り、壮絶な行軍が始まる。ていは、3人の幼子を連れ、ときに、2日2晩も眠らず、移動を続ける。力尽きて倒れる人もあり、牛車を雇ったりしながら、歩き続ける。赤土の泥にまみれて歩き、川を徒歩で渡り、38度線を越えればアメリカ軍がいると聞いていた。
38度線に着くと、ソ連兵が何やら相談をした後、遮断機を開けてくれた。8月11日の早朝、てい親子は、アメリカ軍のトラックに保護され、テントに収容される。
貨車で釜山まで運ばれ、引き揚げ船に乗り博多に着きますが、下船許可が下りず、船の中で死ぬ子どもたちもたくさんいた。
昭和21年(1946年)9月12日、ようやく博多に上陸したていは、引き揚げ証明書を交付される。毛布、子ども服、下駄、乾パン、ひとり5枚ずつの外食券らを渡され、汽車で長野県の上諏訪駅に到着。4年ぶりに会ったていの2人の弟は、ていの姿に驚がくする。ていは両親に抱きかかえられた。そして本の最後に、次のように書く。
「これでいいんだ、もう死んでもいいんだ」
私の頭の中はすべてが整理された後のようにきれいに澄みきっていた。深い深い霧の底へ歩いていけば、どこかで夫に逢えるかもしれない。
「もうこれ以上は生きられない」
私は霧の湖の中にがっくり頭を突っ込んで、深い所へ沈んでいった。
敗戦の混乱の中、まる1年かかった引き上げの旅、最初から最後まで重たい話ばかりで読むのがつらい。それでもやはり読むべきであり読んでよかったと思える本でした。
他の本で既に知っている藤原一家のそれぞれの心身に時に現れるトラウマが、この旅を経験すればそうなるだろうと、またこの本が子供達への遺書のつもりで書きためたものに基づいているということも納得できた。
感想が書きづらい。思うことが多すぎる。
命がけの土壇場に追い込まれたとき人間はここまで利己的になるのだということをことあるごとに突きつけられる。守るべき範囲は家族だけというのがほぼ全員。ていは冷めた目で周囲を観察し続けた。冷たくあしらわれ憎んだ他のグループのリーダーが、実はそのリーダはそのグループにとっては実に優れたリーダだったからこそ、集団で帰国できたのだろうと悔しくも認める冷めた理性を最後まで持っていた。
お金や貴重品を強奪にくる多数の朝鮮人もいるが日本人に親切にしてくれる朝鮮人もいた。38度線を越えるときソ連兵も優しかった。越えてからはアメリカ兵に助けられた。一方、完全に信頼し合い心を許せる日本人仲間は誰もいなかった。子供を守りきるために常に緊張関係にあった。日本人仲間とのやりとりでは、それぞれが生き抜くために利己的になり人間の醜い本性がさらけ出される。
お互いに家族の命がかかった駆け引きがあり善人のままではいきていけない。ていも騙されるし自分が騙しもする。38度線に向かう強行軍のとき、子供を抱えたていは大抵最後尾になる。もう歩けないこの子供を牛車に乗せたい。そのために1000円という金がいる。そこでていはお金をもっていて弱みをつかんだ人から強引に500円を借りる。その時。日本で2000円を返すと借用書をかく。生きるための凄まじい駆け引きに圧倒される。
帰国後に観象台疎開団の人達と出逢うことがあったのだろうか?もし逢うことがあったとしたらどんな出逢いになるのだろう。
咲子の本にあった初版の後書きを読みたいのだが、今回の本には収録されていない。
『流れる星は生きている』は1949年に日比谷出版社から出版され、直ぐに映画化。ベストセラーで出版社も潤ったはずなのに会社はつぶれ、その後、いくつかの出版社でだされている。今、茨木市の図書館で読めるのはつぎのものである。
1 文庫 流れる星は生きている 改版/藤原てい 中央公論新社 ; 2006
2 児童書 流れる星は生きている/藤原てい 偕成社 ; 1991
3 児童書 流れる星は生きている/藤原てい 筑摩書房 ; 1989
4 大活字本 流れる星は生きている 下/藤原てい 埼玉福祉会 ; 1987
5 大活字本 流れる星は生きている 上/藤原てい 埼玉福祉会 ; 1987
6 一般書 流れる星は生きている/藤原てい 中央公論社 ; 1985
7 児童書 流れる星は生きている/藤原てい 偕成社 ; 1984
8 一般書 流れる星は生きている/藤原てい 中央公論社 ; 1984
9 一般書 流れる星は生きている/藤原てい 偕成社 ; 1982
10 児童書 流れる星は生きている/藤原てい 偕成社 ; 1965
11 児童書 流れる星は生きている/藤原てい 偕成社 ; 1965
『チャキの償い』 藤原咲子、山と渓谷社、2014年
『母への詫び状』から9年を経て出版された。『父への恋文』からは13年、藤原咲子の三部作の最終版。山と渓谷社は新田次郎との縁か。
母の『流れる星は生きている』、父の『望郷』、『豆満江』を巡る旅からこの本は始まる。中朝国境の町で父母の足跡をたどる旅は切ない。
後半は咲子の結婚生活や子供達のことを詳しく書いている。しかし、何時、離婚したというのは不明のまま。咲子の文は感情が全面に出過ぎて、背景や事実関係が描き切れていないと思う。作文指導をしてきた新田次郎ならどう受け止めるのかなと・・・。
この本も父への熱い思いに溢れている。『母への詫び状』で同じことを感じたが『父への恋文 3』でよいのではと。新田次郎が亡くなってから35年近く経つ今、あとがきに次のようにその思いをつづる。
「一九八〇年の寒い朝に、父は突然逝った。書斎の文机には、連載中の『孤愁』『大久保長安』の生原稿が残されていた。悲しみの涙を全身でぬぐった日々は、やがて怒りの感情となり、なぜ父が亡くならなければならなかったのか、と遣り場のない深い溜息をついては、低い空を見上げ続けていた。一木一草も芽生えない不毛の年月は二十年、慟哭をしまい込み、私はやっと父との約束を果たし第一作『父への恋文』を上梓したのである。」
藤原ていは長い病床にあると。
藤原正彦と美子の本 投稿日:2015年 2月14日(土)
『ヒコベエ』藤原正彦、新潮文庫、2014年
『夫の悪夢』藤原美子、文春文庫、2012年
藤原正彦は新田次郎・藤原ていの次男、美子は正彦の妻。
(新潮社の広告文)
『国家の品格』の著者が初めて綴った自伝的小説。卑怯者は許さないぞ!
満州で戦禍に巻きこまれ、命からがら日本へ引き揚げてきたヒコベエ一家は、信州諏訪に身を寄せる。なだらかな稜線を描く山や緑深い自然に囲まれ、ヒコベエは腕白坊主に成長する。やがて一家に訪れた転機。母の小説がベストセラーになり、父も作家の道を歩み始め……。貧しくとも家族は支え合い励まし合って暮していた。日本そして日本人が懸命に生きた昭和20年代を描く自伝的長編。
藤原正彦は昭和18年生まれなので(た)と同じ学年、同じ時代を生きてきたので共感できることも多いだろうとは思っても、『国家の品格』という言葉は好きになれないし第4回正論新風賞の受賞などから何となく安倍首相のお友達風の愛国者的臭いがして(国家を気楽に論じる人たちへのTNの嫌悪感?)今までは読む気にはならなかったが、新田次郎・藤原ていのことをもっと知りたいと読んでみた。
『流れる星は生きている』後の約10年間のことが書かれているのだが、幼い頃のことをどうしてそんなに詳しく覚えているのだ!と感嘆。ずば抜けた記憶力?父や母から何回も昔話を聞かされてきた? 父や母が書いた小説や随筆から記憶が蘇る? それとも創作?
気になったのは『流れる星は生きている』が出版されるまでのいきさつや吉祥寺に土地を買い家を建てる時の話、藤原ていの『わが夫 新田次郎』を読み推測したことと随分違う。正彦が当時、すべてを理解しそれを今まで記憶しているはずがないので、両親のどちらかに聞いた話なのだろうけど・・・・・。どちらが正しいのか知らないが小説家というのは平気でウソを創作しまるでノンフィクションのごとく書くことが出来る人達なんだと理解すべきなのかな?
藤原咲子の本で、正彦は頭が良く独特の思考法で人を煙に巻く賑やかな人というイメージがあったが、今回の2冊を読んでもそのイメージは変わらない。成績も良いガキ大将として小学校生活をおくる。ガキ大将と子分達、弱い物いじめといった話がとくとくと描かれているが、ガキ大将になったこともいじめられた経験もない(た)には別世界の話。でもまあそれなりに楽しめました。
藤原咲平は大変な愛国者だった。両親(次郎・てい)は、自国が勝つために全力を尽くすのは当然の義務と思っていた。・・・・時の権力者GHQにすり寄ろうとする人々には我慢がならなかった。また新田次郎はソ連が大嫌いでロシア人を露助(ロスケ)と蔑称し、武士は損をしてでも義を尊ぶと武士道精神を絶えず説く。このような文章や本全体のトーンから、新田次郎やその尊敬する父に教育された正彦は、ソ連は許せないがアメリカは許せる保守的な愛国者なのだろうなと思う。
しかし、藤原ていは戦争については彼らとはまったく異なる考え方をする。朝鮮戦争が始まった時、新田次郎はソ連がそそのかしたから戦争が始まったと主張したが「てい」は、朝鮮を南北に分けたアメリカも悪いという。そして38度線を越えての逃避行の時、助けてくれた朝鮮人のお婆さんことを本気で心配する。『夫の悪夢』で「てい」は美子に「いま戦争が起きたらどうするか」と問い、「美子さん、正彦をどんなことがあっても戦地に送ってはいけないですよ。その時には私が正彦の左腕をばっさり切り落としますからね。手が不自由になれば、招集されることはありません。右手さえあれば何とか生きていけますから」と言ったということが紹介されている。凄い覚悟だなと圧倒される。
『夫の悪夢』は短い随筆が集められていて「夫の悪夢」は巻頭にある。武士道を唱え天下国家を語る立派な夫に実はこんな臆病なところがあると暴露し茶化した随筆。沖縄のダイビングスクールに無理矢理つれていった。臆病な夫は緊張のあまり疲労困憊、そして夜は悪夢にうなされていたと。
藤原咲子が、「次兄・正彦は、今も川を渡らないし泳がない」、と書いていたのでこれは残酷物語だなと思いました。『ヒコベエ』に、生まれて知った自分の弱点として、母の故郷で遊び仲間に川に誘われ、「一歩も足が進まない。恐怖心ばかりがこみ上げてくる。・・・・・」と。
藤原一家の周りにはなんと有名人が多いのだと感心してしまいます。初めはへーそうなんだという感じで読めるのですが、有名人好きがだんだん鼻につき嫌になります。
でもミーハーな好奇心から「映画狂想曲Ⅰ」「映画狂想曲Ⅱ」「剱岳試写会」は興味深く読み、録画していた映画『剱岳 点の記』まで見てしまいました。『剱岳 点の記』は新田次郎の小説、それを木村大作が映画化した。版権をもつ正彦と木村監督とのやり取り、そして美子が古田(役所広司)の妻役で出演し正彦・美子の息子三人がエクストラで出演した顛末記。そしてその試写会に皇太子まで引きずり出したいきさつが書かれていて面白かった。出演者として前の方に美子や息子三人の名前が出て、最後に版権者の新田次郎の二人の息子の名前、そして原作者の新田次郎の名前が。映画のクレジットというのはここまで関係者をリストアップするのだと初めて知りました。
『ヒコベエ』も『夫の悪夢』も著者の自慢話が若干鼻につきます。これも又似たもの夫婦だと思います。『夫の悪夢』は文庫本のエッセイ集でこれだけ写真の多い本は初めて、美子が美人だからなのでしょうが・・・・、ブス夫婦のひがみか。
(文芸春秋BOOKのHPより)
著者は、『国家の品格』で世に広く知られた藤原正彦教授夫人。新田次郎・藤原てい夫妻の次男の嫁でもあります。大学院や大学で学ぶ3人の息子さんたちはいずれもイケメン揃い。そこに、ユニークなご主人が加わり、藤原家はいつも楽しそうです。義父母から教わったこと、英国での思い出などがユーモアと品格ある文章で綴られた極上のエッセイ集です。果たして「夫の品格」は如何に。
『小説に書けなかった自伝』
新田次郎、新潮文庫、2012年
(新潮社)
人間の根源を見据えた新田文学、苦難の内面史。昼、働き夜、書く。ボツの嵐、安易なレッテル、職場での皮肉にも負けず……。新田次郎生誕100年。
安月給の生活苦。妻の本に触発された訳ではないが、小説に挑戦してみようと思った。しかし、何をどう書けばいいのかまるでわからない。なくされた原稿、冷たい編集者、山岳小説というレッテル、職場での皮肉。フルタイムで働きながら、書くことの艱難辛苦……。やがて、いくつもの傑作が生まれていく。事実を下敷きに豊かな物語を紡いで感動を生んできた新田文学の知られざる内面史。
藤原ていや咲子、正彦の本で私の新田次郎の人物像は既にできあがっている。勤勉、約束の期限・時間は厳守、正義感が強い。妻を愛し、子供や孫を溺愛。その印象が自伝でどう変わるか楽しみに読んだ。結論は全く変わらなかったが、より深く新田次郎の人柄を知ることができたと思える。
頭の良い人
新田は無線通信士第1級と無線技術士第1級の資格をもっている! 無線電信講習所出身なので不思議ではないが、気象庁勤務ではそこまで必要はない。私は工業高校電気科卒なのであこがれの資格、電気科の先生方でも第1級資格は1人だけで生徒に尊敬されていた。凄いなと感嘆!
コンプレックス
正彦が東京大学に入り、理学博士になったので、東大・理博コンプレックスが消えた。まあそんなものだろうと思います。
役人小説家
「小説は夜書いた。退庁時刻が午後五時。国電に乗って吉祥寺の自宅に帰るのが午後六時過ぎ、食事をして、七時のニュースを聞くと、自分の部屋へ引き込んで十一時までみっちりと書いた。四時間以上書くことはできなかった。床に入ると、直ぐ寝入ってしまった。・・・・・・ 翌朝はどんなに遅くとも八時前には家をでなければならなかった。家を出てからは、役所の仕事のことをずっと考えていた。」
なんと勤勉で強い意志力と感心する。しかし、気象庁というのは課長補佐が五時に退庁できたのだ! これは実験系の大学人だった私にはとうてい理解出来ない世界のお話です。
課長として富士山レーダー設置の大仕事をやり遂げる。この時、特に業者選定の際、技術者として合理主義を貫く。普段は周りに気遣う小心者のようにも見えるが土壇場では頑固に自分の意志を貫く。役人には勿体ない剛毅な気質を見せる。
レーダー設置の大仕事が終わると、気象庁の人事の停滞を打破するという理由で退職することを期待される。自分で退職を決意するが、一時期、不眠症に襲われ、職場を辞めたくないという夢ばかり見たという。
この未練たらしさが小心者の新田なのかなと思う。そして決断の時、いつも背中を押すのは藤原ていであった。
他人の批評・評価を気にする
作品に対する他人の評価を常に気にし、高い評価、低い評価ともに何時までも覚えている。高い評価をしてくれた人には機会があったときに本人に謝意を表明している。
「幸せなことに上司や同僚たちに恵まれ、居心地のいい気象庁という職場にいたと同時に、理解ある編集者の援助を受けた。」と書くが、嫌な同僚も編集者もいた。それも隠さず書いている。嫌悪感を隠さない、人付き合いにごつごつした感じがある素朴な人だと思った。
直木賞を受賞した時の芥川賞は石原慎太郎だった
石原の栄光の陰に隠れて目立たなくなったことが、今から考えると有り難いことだと書く。
「売れる作品」と「良い作品」
売れる間はにこにこし、売れなくなれば横を向く出版社を相手にし、新田は常に売れることを意識していた。
「良い作品」=「芸術的価値の高い作品」としても芸術的価値の尺度がどこにもない。とすれば客観的な評価、つまり読者の判断にまかせるしかない。つまり「売れる作品」が「よい作品」ということになるが、ベストセラーが「良い作品」とは限らない。というようなことを考え、新田は「売れる作品」=「良い作品}となるようにもっていこうとした。
新田ほどの作家がここまで「売れる」ということにこだわっていたのかと思うと意外である。たぶん新田は芸術的な直感力で作品を生み出していく天才的な作家ではなく、読者、編集者の意向を理解してた上で徹底的な資料調査などの努力を積み重ね優れた作品を生み出してきた作家なのだろうなと思う。
新田次郎の山岳小説
新田には山岳小説家というレッテルがある。そのレッテルにより、新田の作品の広告には登山という世界にだけしか通じないような用語を用い、明らかに山屋(広い意味での登山愛好家)を対象としたものであり、逆説的に言えば山岳小説だから山屋以外は手を出すなといわんばかりのものまであったという。
しかし、新田は山を書いているのではなく人を書いているのだと不満だった。新潮出版部でそのことに最初に気付いたのは『孤高の人』から編集担当になった徳田義昭だった。そして広告も「なぜ山に登るか、生涯問い続けた単独行の加藤文太郎」という名文句になり、上下とも10万部を越えた。前作『火の島』が返品の山となり新潮社の新田に対する態度は明らかに冷たくなっていたのが、『孤高の人』の売れ行きに比例し、新田に対する冷たい態度が温かくなっていくも、なにか見えすいていて腹立たしかった、と書いてしまう新田を私は好きだ。
新田の人間性をさらけ出した楽しい本だった。新田の作品をまた読み直してみようと思う。