姉・前田敏子を偲ぶ

 てみ子の姉・前田敏子が2017年1月31日(火)の20時07分に逝去しました。
 敏子姉は昭和11年6月5日生まれで80歳(享年82)でした。
 2015年11月末に膵臓癌のステージ4と告知されてから1年と2ヶ月、よく頑張ったなと思います。今年になって、もう医療の打つ手は無いと本人も分かっているのだと感じていました。 それでも電話で、腹水がたまり尿がでない、食事ができないなどと苦痛を訴えるものの、意識は死の前日まで正常で会話ができました。最後まで正常な意識があるというのは、なんと残酷なことなのだ感じていました。
 姉は本当に最後まで毅然として生ききったと感動します。お義兄さん(利賢 1989年2月1日に60歳で逝去)の命日の1日前、きっとお義兄さんがむかえにこられたのだと思います。

 姉は世話好きで明るい人でした。私たち夫婦はお世話になるばかりでした。姉との付き合いで今も直ぐに思い出すことを書き出していきます。

1987年(昭和62年) 鹿児島へ
 1987年(昭和62年)の7月31日に大阪南港からフェリーのサンフラワーで親子4人で鹿児島に里帰りしました。てみ子の父親もまだ健在でした。お兄さんやお姉さんのそれぞれの家で歓待され,正志は芋焼酎に酔いしれました。
 いろいろ観光もしましたが正志の仕事がらみで姶良火山灰を採取しています。このころから火山灰,特に2.5万年前に姶良カルデラから噴出した姶良火山灰や阿蘇火山灰などのいわゆる広域テフラに正志の研究の興味が移り,姶良火山灰を探しにこの年の10月にはてみ子と福島県にまで出かけています。その後も何回か鹿児島に広域テフラ試料採取にでかけ、その都度、姉さんの家でお世話になりました。
 8月6日の朝,鹿児島から大阪に戻りました。4人そろって鹿児島へ行ったのはこれが最後でした。
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利賢(左端)さんと私たち家族(郡山の前田家の庭で

義兄利賢さんの急逝
 1989年(平成元年)2月1日
の朝、義兄は急逝、昭和4年生まれで60歳でした。
 知らせを受け、正志は勤務先の福井大学で急用のみをかたづけ、14時に初代インテグラで茨木に着く。休む間もなく鹿児島に向かいました。中国自動車道の広島あたりで雪だったことを覚えています。この頃はまだスタッドレスタイヤではなくスパイクタイヤだったような気がします。まだ九州自動車道は途中までで熊本からは一般道、深夜になりそうなのでどこかに泊まると姉に電話すると、待っているのできなさいと。翌日の朝2時に鹿児島県郡山町の前田宅に到着。
 11時から葬式,現役の町の収入役の突然死で,葬儀には約600人が詰めかけました。私たち夫婦の(義)兄弟姉妹の死は初めてで大きなショックを受けました。
 葬儀をすませ、3日の朝9時に帰路につき、22時に茨木に。
 アメリカ在住の紀子姉を除いたてみ子の兄姉の全員(6名)が葬儀に間に合いました。敏子姉の悲しみを思うと何も言えませんでした。姉は泣かずに気丈に振る舞っていました。

今は亡き次男・達志が鹿児島へ
1992年(平成4年) 次男・達志は中学を卒業し高校に入学する前に一人で鹿児島の親類を訪ね、皆さんのお世話になり、よほど感激したのか日記に色々書き残しました。
 敏子姉について書いた部分を引用します。「3月31日 昨日,敏子叔母さんの所にタケノコ掘りに行った。叔母さんは見つけるのがうまかった。僕は掘るだけ。
 敏子叔母さんは寂しそうだった。香代子ちゃんは結婚したし,利久さんは大島に5年間も。あの家で一人,太郎(亡き義兄が可愛がっていた犬),お前はしっかり叔母さんのことを看てくんだぞ。叔母さんの顔,体を見ていたらしわがいっぱいで俺は泣きそうだった,いや泣きたかった。最後に叔母さんに,もう会えないからと言われた。叔母さんは違う意味で言ったのだが。僕には,一生あえない予感がした。」 最後に「楽しかった鹿児島,満叔父さん,千鶴子叔母さん,敏子叔母さん,利夫叔父さん,まち乃叔母さん,伸ちゃん,貴子さん,和代さん,ほんとうにありがとうございました。
 お祖父ちゃん,まだまだ生きてな。」と締めくくっていました。

 

2010年(平成22年)3月 伊吹・彦根から福井へ 
 
敏子姉さんは私たちの結婚式(1973年10月8日)、長男・大智の結婚式(2002年3月10日)、次男・達志の葬式(2002年6月12日)などのために大阪に出てきてくれました。いつも私たちが忙しすぎて、観光案内などはまったくしていませんでした。それでこれまでのお礼の意味をかねて、正志が定年退職し福井の宿舎を引きあげる前に福井を案内することにしました。
 私たちがよく知っている伊吹(ペンション伊吹に一泊)、彦根城、琵琶湖を巡ったあと福井県の東尋坊、吉崎御坊などを案内し、鯖江の宿舎に泊まりました。私たちの馴染みのコースなので、見せたいものが多すぎて、姉には食傷気味だったかもしれません。しかし、どこでも大喜びしてくれ、好奇心いっぱいに楽しんでくれました。福井大学の正志の研究室もみせました。これが大学?と吃驚した様子、きっと正志の部屋の乱雑さにあきれたのでしょう。
 春の山野草もいっぱい案内しました。セツブンソウなどの可憐な小さな花に、山野草愛好者が多数つめかけているのが不思議だったようです。姉は小さな花よりザゼンソウのようなちょっと大きめのメリハリのある花が気に入ったようでした。

ペンション伊吹
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彦根城
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東尋坊
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上 セツブンソウ     下 ザゼンソウ

2014年4月 アメリカへ
 
カリフォルニア(California)洲のサリナス(Salinas)に在住の紀子姉さんが元気なうちに姉たちと一緒に米国に行きたいという話がでました。睦子姉は不参加、敏子姉は一人でもいくつもりということで、結局、敏子姉と正志&てみ子で行く事になりました。
 正志&てみ子は4月9日から19日までの11日間、敏子姉は9日から28日までの20日間の旅。アメリカでの日程は全て、早期退職し時間に余裕ができたという甥の勤君(サンノゼ San Jose在住)が調整・案内してくれました。

 アメリカ旅行記は「アメリカ西海岸 2014年4月」、「アメリカ西海岸 4月中旬の花たち」、「アメリカ西海岸 4月中旬の鳥たち」にまとめているのでここでは省略します。

 敏子姉はアメリカでも元気でした。紀子姉、姪のマリ子、甥の勤夫婦とよくしゃべり、食欲も旺盛でした。サービス精神も旺盛で、手品も披露してくれました。
 ミュアウッズ国定公園(Muir Woods National Monument)やビッグサー(Big Sur)でのトレッキングも難なくこなしていました。私たちが興味を示す山野草や野鳥探索にも機嫌良く付き合ってくれました。
 紀子姉は足腰がだいぶ弱ってきているようだったので、元気なうちに逢っておきたいという思いは正解だったようです。

4月10日 カリフォルニア州のセントラルコーストにあるビッグサー(Big Sur)の州立公園
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4月11日~13日 ラスベガス
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4月13日 サンノゼ
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4月14日 ナパ
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4月15日 サンフランシスコDSC_0935

4月16日 スタンフォード大学
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4月17日 サリナス
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2014年10月9日~10日 黒部・立山へ
 1泊2日のJTB旅物語のツアー「黒部峡谷トロッコ列車と立山黒部アルペンルート2日間」に、鹿児島の敏子姉、枚方の睦子姉と正志&てみ子の4人ででかけました。当初は3姉妹での旅の予定でしたが写真係にと正志も参加することになりました。私たち以外は高山になれていないのでツアーに参加することにしました。人気のコースで、クラブツーリズムや阪急トラピックスなどでも同じような旅行代金で同じような企画がたくさんありましたが、私たちに馴染みのJTB旅物語を選択しました。黒部峡谷では他のJTB旅物語の団体が複数あったのには吃驚。 旅行記は「立山」に。

 素晴らしい晴天にめぐまれ、北アルプスの絶景に高山は初めての姉たちも大喜びの旅行になりました。登山のツアーではないので歩くのはせいぜい1時間程度の楽な行程でした。

 敏子姉は13日の飛行機で帰る予定でしたが、台風接近で12日に変更。大阪(伊丹)ー鹿児島間のANAは一日に6便あるのですが、第1便は欠航、2便は福岡に着陸か伊丹に引き返すこともあるとANAのHPにでたので、乗る予定の第3便は危いだろうと、急遽、新幹線に切り替えました。新幹線は台風がらみの飛来物の影響で一時運転見合わせだったので心配しましたが、切符の取れた「さくら555号」はほぼ定刻に新大阪をでて 無事帰宅。

 絶景旅の付録に台風騒動があり、よけいに印象深い旅になりました。

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2015年4月7日~4月12日 てみ子の兄弟姉妹の親睦会に
 
敏子姉が世話をして、4月8日と9日に鹿児島県「休暇村指宿」で永井家兄弟姉妹の親睦会が開催されました。それぞれの連れ合いも参加し総勢10名でした。私たちは「由布院」で1泊してから「休暇村指宿」に向かいました。
 人気の休暇村で宿泊客は満杯のようでした。部屋に風呂はないのですが大浴場、露天風呂、砂むし温泉が利用できました。
 夕食は「郷土料理+バイキング」のハーフバイキングと称するもの。朝食は普通のバイキング形式。料理はまあまあの味でした。
 久しぶりに顔を合わせてそれぞれが老けたなと実感しつつ楽しい時間を過ごしました。

 9日は全員でグランドゴルフの予定だったけれど、天気予報が9日だけは晴れ間があるというので私たち夫婦は開聞岳登山には絶好のチャンスだと別行動に決めました。空き室があるというので、登山後、休暇村に連泊することにしました。

 10日は「フラワーパーク鹿児島」に寄った後、てみ子の故郷日置市東市来町田代で永井家の墓参り。敏子姉と鹿児島市郡山町西俣の家(今は貸家にしている)で合流。竹藪で筍を掘り出す。正志は筍掘りは初体験、なかなか難しい。その後鹿児島市岡之原町の敏子姉の家に行き泊まりました。さっと作って出してくれた新鮮な筍料理は美味しく、焼酎も旨かったのです。

 11日は姉と一緒に霧島(えびの高原)へ。「大浪池」登山口に駐車し、良く整備された登山道を1.2km登りました。姉もスローペースですが元気に登り切りました。
 「大浪池」からは韓国岳が目の前に、登りたかったのですがこの日は時間的・体力的に無理だったで諦めました。ハルリンドウの群生があり、嬉しかった!

 えびの高原の「えびのエコミュージアムセンター」、「高千穂牧場」を経て帰路に。鹿児島空港で敏子姉と別れ茨木に。
 私たちとの何回かの旅は姉さんの旅心を余計に刺激したようです。誘ってくれれば何処へでもついて行くと。嬉しいことでした。

2015年6月21日~25日 国立民族博物館・アルプの里・尾瀬ヶ原
 ・奥只見湖・近江八幡  敏子姉との最後の大旅行

6月21日 姉が昨日、大阪に出てきました。伊吹に連れて行きたかったのですが天気が不安定。明日の早朝から尾瀬ツアーに参加するので今日は近場にというわけで万博公園に。
 民博で「音楽の祭日 2015 in みんぱく」という行事をしていて今日は無料観覧日というので、せっかく万博公園にきたのだからと民博だけでなく日本庭園にも久しぶりによってみました。

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JTB旅物語のツアーで尾瀬ヶ原へ!
2015年6月22日
 「湯沢高原アルプの里」で観光し湯沢温泉にある「ホテル・スポ-リア湯沢」に泊まりました。
 アルプの里では、定員166名という世界最大級(?)のロープウエイで標高377mの山麓駅から標高870mの山頂駅へ。1時間足らずで多くの高山植物が植栽されているロックガーデンを巡りました。
  むろん高山植物の女王コマクサはありましたがなんとなく寂しげに見えました。一番印象に残ったのは美ヶ原でみたことのあるコウリンタンポポでした。
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6月23日 尾瀬ヶ原
 それぞれにガイドが1人がついた3班に分かれ、準備体操をし尾瀬ヶ原に出発。正志&てみ子は健脚者グループの15名の第1班に。残りは第2班(14名)と第3班(13名)に、79歳の敏子姉は2班に。姉の歩行力に不安があり連れ立って行くつもりでしたが、2人は自由に歩きなさいというので、「もうダメと思うところで停止し、私たちが戻るまで待つように」と何回も説明し別行動になりました。

 姉が「義兄がいつか尾瀬ヶ原に連れて行くと言っていたので、是非行きたいのだ」と言うのを何度も聞かされていました。またミズバショウを見たいと言うのでなんとか間に合うだろうと6月にしたのです。ミズバショウが綺麗に咲き残っていたので嬉しかったのですが、姉の方は体力的に大変だったようです。この時の無理がガンの症状を一層悪くしたのではないかと、あとから悔やみました。

 姉は最初の山の鼻までの下りは無事。尾瀬植物研究見本園ですれ違ったときもまだ元気そうに見えました。ご本人はこの辺りでかなりしんどくなっていたようで、ついて行くのが精一杯で、下をみて一生懸命歩いていたので自分の位置を全く把握していなかったようです。山の鼻に戻ったときにそこで停止し待っていてくれればよかったのに、尾瀬ヶ原牛首分岐まで行ってしまいました。途中、すれ違った時疲れがピ-クのようだったので、私たちが第1班を離れ姉のサポートにまわろうとしましたが、添乗員さんが面倒見るので班を離れるなという。気掛かりで最後尾をゆっくり歩きました。
 ガイド同士の無線のやり取りで、1人が体力不足で遅れているが添乗員がついているという情報が入る。姉の第2班は歩行能力のばらつきが大きすぎて、ガイドの許可なくさっさとすすみ、前を行く私たちの第1班を抜いていこうとする人達もいました。私たちのガイドが勝手な行動を止め、第1班に合流させました。第2班のガイドの統率力不足とグループ員の歩行力の差が大きすぎることが姉の苦戦の原因かなと思いました。第3班は牛首分岐まで行かずに途中で引き返しゆったりしたペースでまわっていました。せめてこのグループだったら自分の位置を確認もせず歩くこともなかったろうにと思います。
 私たちのガイドに姉の状況を伝えると、様子を確認しに行ってくれ、途中で第2班のガイドを姉の保護に向かわせました。
 病気やケガがない限り大抵は予定の時間で戻ってきますよと気休めを言ってくれました。
 その予定の時間16時30分から5分遅れで、添乗員、ガイドと一緒に戻ってきました。全員が大きな拍手で迎えてくれました。ご苦労様。まあ、大したものです。落ち込まず、よくしゃべりよく食べ、翌日もけろっとしていました。
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6月24日(水) 奥只見遊覧船と龍ヶ窪観光
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6月25日 近江八幡水郷巡り
 尾瀬ヶ原で12kmも歩いて帰ってきたばかりなので姉は疲れているはずで、今日は出歩きたくないだろうと思っていたのですが、「正志さんが大丈夫なら、私は行きたい」というので近江八幡観光にでかけました。
 昨年の6月に米国サリナス在住の勤一家が来日した時にも近江八幡を案内しました。その時の手こぎの和舟での水郷巡りの話を聞いているので、行ってみたいと思ったようです。その時に放映されたBS朝日の「人生の楽園」も見たらしい(今年の6月14日に再放送)。で、今日の目玉は和舟に乗っての「水郷巡り」。
 「元祖おうみはちまん水郷巡り」の乗船場に直行、9時着。定期便は10時発、貸し切りなら直ぐにでも出せるというので、6人乗りの貸し切り舟を頼む。3人なので少しだけ割高だがまあたまにはこんな贅沢もよいものです。朝一番で他の舟はまだでていない。広大な水郷の素晴らしい景色を独占というのは贅沢な限りでした。オオヨシキリ、カイツブリ親子、アオサギ、カルガモなど、そして青々としたヨシ原、水路の柳。のんびりと船頭さんとの会話を楽しんだ80分でした。
 下船した時、「人生の楽園」での主役だった船頭さんに出逢いました。大阪から毎日、愛妻弁当をもって通っていて、元高校の校長という変わり種。正志の友人元島根大学教授のQちゃんも退職後、松江で手こぎの観光船の船頭をしていたことがあり、イメージが重なってちょっと奇妙な感覚。ただ、元校長さんの方が人付き合いが上手そうな・・・。
 姉やてみ子がテレビをみたというと、愛想良く相手をしてくれまし。

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2015年
11月29日 敏子姉、腹痛で入院
11月30日 膵臓ガンのステージ4と告知。手術は無理で化学(抗がん剤)治療しか手はない。
12月 6日 ガンが脳にも転移
12月15~17日 脳外科で放射線治療
12月22日 セカンドオピニオンをもとめ治療法を探るため鹿児島大学病院に入院 

2016年
 
電話のやりとりでいつも元気に話してくれるが徐々に弱っていくのを感じていた。入退院の繰り返し。
 息子・利久夫婦、娘・香代子、孫達、二人の兄夫婦やその子供達、親類の人達の親身の世話を受けていて、私たちにはいつも元気そうに振る舞っていました。
1月30日 毛が抜けたと電話
2月7日 抗がん剤の副作用は少ないとメール

 アメリカの甥・勤から「母(紀子)が水曜日(2/17/16)にサンフランシスコの UCSF 病院に入院し、大規模な手術を受けました。今、回復中です。去年末に頭と首の MRI の結果で頭と首の繋ぎ目の所にバンヌスが発生していて、神経を押さえているのが見つかりました。」というメールあり。
 利久は「母(敏子)の容態は落ち着いてきており,抗ガン剤治療の副作用は白血球の減少と脱毛程度なので,退院の検討をしているところです。」と返信。
 勤から「此方の日曜日にUCSF病院から退院して、モントレーの看護施設に移動しました。救急車を使って運ばれました。ここで6週間ぐらいのリハビリが始まります。動いたら首が大変痛いので、苦しんでいます。それでもリハビリの体を動かすのは大事なので、無理やりに動く運動を昨日させられました。母は大変疲れていたと鞠子から聞きました。トイレも自分で食べるのもやっと出来る様な状態ですから、かわいそうです。今日、施設の係の人達からリハビリの事に付いての説明を受けます。母の病気はパンヌス(pannus formation) と医者が言っていますが、後縦靱帯骨化症とはちょっと違う様です。しかし結果は同じだと思います。母の事だから、頑張って元に戻る努力をすると思います。」
 
紀子と敏子は本当に仲のよい姉妹なのでどちらも相手のことを大変心配していました。

4月10日~26日 入院。この間に熊本地震がありました。次は5月9日から入院予定、食べられないと。
5月13日 腹水がたまる
5月28日 1日3回、痛み止めを飲んでいる
6月5日 80歳の誕生祝いの電話をかける

(この数年は寝たきりだった千葉の義姉が逝去し、6月26日が通夜、27日が葬式。)

7月13日 昼にスパーランドらららで兄弟(姉妹)食事会。その後、敏子姉と墓参りをして姉の家に泊めてもらう。トイレには人生訓が何種類も。抗がん剤をやめたからか頭髪は復活していました。
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兄弟会のあと姉は張り合いがなくなったのか元気がない様子が続きました。

8月17日 「ついに姉が食事ができなくなり16日に入院し、今日、十二指腸にステントを入れる手術をする。美術展に行くつもりだったが流石に出かける気力は無い。頑張れ!と祈るだけ。遠出はやはりしばらくは無理ですね・・・・」と正志はツイート。
9月7日 緩和ケア病院にテスト入院
10月17日 3日前に退院。TS-1(抗がん剤)を飲んでいる。食べても味がない。
11月24日 てみ子が学会で鹿児島へ
11月26日 途中まで姉が車で迎えに来てくれ家に。伸ちゃんの子供達が焼き芋を楽しんでいた。しんどいだろうにご馳走をしてくれ、手料理を土産にもたしてくれました。生きている姉の顔を見られた最後になりました。
12月3日 姉LINE「こんにちわ。利久がきたのでもみじ見にドライブしました。」12月12日 緩和ケア病院に緊急入院。吐いた。ステロイドの点滴。腹水がたまる。

(このころ、11月に急性白血病で大阪大学病院に入院した私たちの孫・花楓のことをしきりに心配してくれていました。)

12月19日 三階の病棟(消化器内科)に移り、22日に再度ステント挿入手術。この病棟の看護婦は不親切とぼやく。
12月29日 姉LINE「今晩わ。いよいよ今年も2日になりましたね。今食べ物が通るかテスト的にでるのですがほとんど食べたくありません。点滴していませんがまだ歩いています。今日は柿木平の京子さんがきてくれました。」

 

2017年
姉LINE「年が明けました。点滴で年を越しました。お互い坂はきついですが頑張るしかありませんね気張りましょう。」

元旦  半日だけ一時帰宅。仏壇、お墓に御参りし、伊集院の兄の家にも挨拶にいく。
 尿が出ない、腹水がたまる、食べられないと苦しみが続く。
1月30日 21時過ぎても良いから電話をしてと連絡が、何度も電話するがでない。
1月31日 全く連絡が無いのでいよいよかなっと覚悟。睦子姉から、薬を使って眠らすがそうなったらもう話が出来ないので電話しろと連絡あり。しかしてみ子は仕事で移動中で電話できなかった。

20時過ぎに死亡の知らせが届きました!(てみ子は仕事中)

 

敏子姉の葬儀

  敏子姉(戒名  釋 理習)の葬儀に二人で出かけました。大阪からは睦子姉夫婦、千葉からは正文兄さんも出席しました。

鹿児島市JA総合葬祭やすらぎ館伊敷斎場
通夜 2月2日 17時から
 郡山の光明寺の住職さんが導師
 凜とした気品の漂う女性住職、
  姉をよくご存じだったためか非常に心のこもった講話をして下さいました。
 睦子姉は灯明の護に式場に泊まりましたが、私たちはJR鹿児島中央駅前のアパホテルに。

葬式 2月3日 11時から
 導師は通夜と同じ
 葬式のお経の後、直ぐに3日?のお経があげられました。無くなって3日目で初七日までの中間日ということらしいのですが、大阪の私たちには初めての経験でした。30分近くもある長い読経でした。

 導師さんの強い指導で、49日まで7日毎の御参りも日程通りきちんとすることになりました。私たち大阪人の感覚では、7日毎にお寺さんに自宅に来て貰うのは大変という思いが強いのです。しかし、鹿児島では初七日は誰、14日はだれそれと手分けしてお寺に行き住職さんにおつとめをして頂くらしい。49日だけはみんなで集まってということらしい。それも浄土真宗のお寺ならどこでもよいと!睦子姉とてみ子は3月6日の30日に京都に西本願寺に御参りすることになりました。アメリカの紀子姉に葬儀の様子を伝える電話をしたとき、鹿児島での49日までの七日毎のおつとめのやり方は昔から同じだということでした。

 アメリカの勤くんから「こちらでは、昨日の夜、法事を行いました。母の家で、お寺の新しい開教師の藤田先生に来て貰いました。彼はまだ27歳の凄く若い青年です。てみこおばさんはお葬式に行かれますか?多分孫様の事で大変だろうと思いますが。敏子おばさんの写真は3年前のこちらで写したのを使いました。」というメールとその時の写真が届きました。葬儀場にこの写真も展示しました。

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13時頃、鹿児島市北部斎場で火葬
14時半 骨上げ
 立派な導師さんで良い葬式だったと嬉しかったのですが、この火葬や骨上げにはお寺さんの姿はなし。なんで?という感じ。葬儀や習慣・方法はまったく地域毎に違うのだと、いつものように思い知りました。

 敏子姉さんは昭和11年6月5日生まれで80歳、しかし享年は82となるらしい。

葬儀が終わって
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 思い出を書き終わった今、あらためて姉・敏子は本当に最後まで毅然として生ききったなと感動します。 
 一緒にアメリカに行って以来、姉との旅行が急激に増えています。それは別れの予感からだったのでしょうか?

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