苦海浄土

 上野千鶴子「時局発言!」(WAVE出版、2017年)の中で紹介されていて是非読みたいと図書館で借りだした。約800頁の大作、内容も水俣病なので重たく、読み進むのは大変。一日80頁ずつ、10日かけて読むことにした。

苦海浄土 1  2018年 1月18日(木)

 4日目、320頁まで読みました。凄い本です。水俣病のことをほとんど知らずにいたこと、石牟礼道子「苦海浄土」を今まで読もうとしなかったことを恥じます。
 読後感を書いておこうと思うのですが、あまりに内容が濃密なので簡単には書けそうにありません。取りあえず今日はコピペだけ。

苦海浄土 (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 第3集)
      石牟礼道子、河出書房新社、2011年1月

(Amazonの本の紹介)
内容紹介
ぼくがこの作品を選んだ理由 池澤夏樹
 ある会社が罪を犯し、その結果たくさんの人々が辛い思いをした。糾弾するのはたやすい。しかし、加害と受難の関係を包む大きな輪を描いて、その中で人間とは何かを深く誠実に問うこともできるのだ。戦後日本文学からこの一作をぼくは選んだ。

「BOOK」データベースより
 「天のくれらす魚」あふれる海が、豊かに人々を育んでいた幸福の地。しかしその地は、海に排出された汚染物質によって破壊し尽くされた。水俣を故郷として育ち、惨状を目の当たりにした著者は、中毒患者たちの苦しみや怒りを自らのものと預かり、「誰よりも自分自身に語り聞かせる、浄瑠璃のごときもの」として、傑出した文学作品に結晶させた。第一部「苦海浄土」、第二部「神々の村」、第三部「天の魚」の三部作すべてを一巻に収録。

著者について
 1927年、熊本県生まれ。10代より歌作を始め、20代からは歌壇に作品を投稿、才能を認められるようになる。69年、『苦海浄土』三部作の第一部となる『苦海浄土―わが水俣病』を刊行、第一回大宅壮一賞に選ばれるが受賞を辞退する。73年、マグサイサイ賞受賞。その後『椿の海の記』『あやとりの記』など次々に作品を発表する。92年刊行の『十六夜橋』で紫式部文学賞受賞。2001年、朝日賞受賞。『はにかみの国―石牟礼道子全詩集』で02年度芸術選奨・文部科学大臣賞受賞(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)。

苦海浄土 2  2018年 1月22日(月)


 読了です。

 池澤夏樹(=個人編集)の世界文学全集に日本の作品ではただ1つ選ばれた。池澤は解説に「まずもってこれは観察と、共感と、思索と表現の全ての面に秀でた、それ以上に想像と夢見る力に溢れた、一個の天才による傑作である。」と書く、全く同感!

 石牟礼の略歴に「1927年、熊本県生まれ。10代より歌作を始め、20代からは歌壇に作品を投稿、才能を認められるようになる。」とある。詩人としての才能は早くから開花していたらしい。最終学歴は水俣町立実務学校1943年(16歳)で今で言えば高卒未満、中卒以上。16歳から20歳まで小学校の代用教員をしていた。貧乏で本もほとんど無い環境で育っている。水俣病とかかわりをもつようになった30歳代後半に、新日窒病院の細川医師に膨大な資料を見せてもらったとき「一冊の本すらまともに読み通したことのないわたくしは、ただ仰天し息がつまった」と書く、そのような女性が、このような「一個の天才による傑作」とまで評される本を書いた、ただただ感嘆です。

 読み始めて直ぐに不思議な文体に魅了された。彼女の文には詩的な心地よいテンポがある。患者の優しさを伝えるためにはその優しい人柄が伝わる方言を用い、会社や国、県の冷たさを表すときは味気ない公文書を引用する。池澤はこのような事情を「水俣の方言で育った彼女はこの言葉に組み込まれた精妙な敬語のシステムを自由に駆使することができるだけではなく、詩や短歌で磨いた韻文の技法を磨き上げており、更に見聞の全てを心で消化して新たに産み直す散文の力も備えていた。まるで一人で奏でるオーケストラだ。」と紹介する。

 苦海を辞書で引くと「生死・苦悩が海のように果てしなく広がっている人間の世界。苦界。」とあった。私の頭には苦界が正しいと思っていた。石牟礼が汚された海という意味をかけて海を使ったのだ思っていたが仏教用語では元々苦海だったらしい。これも池澤が解説していた。

 さて「苦海浄土」どういう意味なのだろう。苦海の先に浄土があるということなのか、苦海に浄土が共存しているのでしょうか。わかりません。

 この本は「苦海浄土」3部作を集めたもので、第1部 苦海浄土、第2部 神々の村、第3部 天の魚となっている。1963年に「熊本風土記」に「苦海浄土」の連載を始め、1969年に講談社「苦海浄土 わが水俣病」を発刊。1969年の熊本日日新聞文学賞、1970年の大宅壮一賞を辞退している。
 1974年に第3部の筑摩書房「天の魚」が発刊されているが、第2部が単行本で発行されているかどうかは分からなかった。


苦海浄土 3  
2018年 1月24日(水)

 水俣病の最初の患者は昭和28年(1953)に、チッソ附属病院の細川一医師の水俣病についての最初の報告書が厚生省に提出されたのが昭和31年(1956)、熊本大学から水俣病についての研究論文が出だしたのが昭和32年(1957)からだった。

 そのころ石牟礼は20代後半、詩人として世に知られるようになっていた。谷川雁を知りその思想・行動に大きく影響されていた。しかし水俣病への積極的な関わりはなかった。

 「・・・水俣病に悶々たる関心と小さな使命感を持ち、これを直視し、記録しなければという盲目的な衝動にかられて水俣市立病院水俣病特別病棟を訪れた・・・」のは昭和34年(1959)5月だった。それからずっと患者に寄り添い、聞き取り役に徹し、患者の気持ちを共有する。 「そのときまでわたくしは水俣川の下流のほとりに住みついているただの貧しい一主婦であり、安南、ジャワや唐、唐、天竺を思う詩を天にむけてつぶやき・・・・」と自分で書く(83頁)、賢そうだが平凡(?)な女性が、著者の成長の証のようなこの凄い本を残せた理由が気になって仕方がない。しかしそれはこの本だけからでは読みとれない。今、手元にある石牟礼の著作はこの本と「最後の人」だけ。2冊を交互に見ながら色々想像するのは楽しかった。

 石牟礼が患者と接するようになった昭和34年11月2日に国会議員団が水俣を視察する。同日、不知火海沿岸漁民2千人と警官隊300人がチッソ工場で激突と水俣病を取り巻く環境が激しく動き出す。

 昭和34年12月に、チッソは水俣病患者互助会59世帯に、死者に対する弔慰金32万円、患者成人年間10万円、未成年者3万円を発病時に遡って支払い、「過去の水俣工場の排水が水俣病に関係があったことがわかってもいっさいの追加補償要求はしない」という患者にとっては屈辱的な契約を取り交わした。

 昭和39年(1964年、37歳)、徳富蘇峰が寄付した「淇水文庫」で高群逸枝著「女性の歴史」との”衝撃的”出逢いがあった。

 昭和40年(1965年、38歳)渡辺京二が編集する「熊本風土記」に「苦海浄土」の連載開始。

 昭和41年(1966年、39歳)高群逸枝の夫・橋本健三宅「森の家」に5ヶ月も滞在する。石牟礼は橋本を師と仰ぎ(その敬愛ぶりはまるで恋人のよう)、「苦海浄土」の原稿も読んで貰っていた。

 石牟礼は「私の中で造山活動がはじまった」と対談で述べている。彼女があらゆる面で飛躍した時代だったのだろう。

 昭和43年(1968) 最初の水俣病の患者が発生してから15年たつ。石牟礼は「今年は全てのことが顕在化する。われわれの、うすい日常の足元にある亀裂が、もっとぱっくり口を開く。そこに降りてゆかねばならない。・・・・」と覚悟を決める。

 1月12日水俣病対策市民会議発足。水俣では水俣病はタブーになっている。「水俣病をいえば工場がつぶれ、工場がつぶれれば、水俣市は消失する」と市民が水俣病患者を毛嫌いしている。そのような逆風の中、市民会議が発足した。
 9月27日、政府はやっと「水俣病の原因は、新日本窒素水俣工場のアセトアルデヒド酢酸設備内で生成されためちる水銀化合物が排水に含まれ、水俣湾内の魚介類を汚染したこと」と発表した。翌28日、チッソの江藤社長が東京からやってきて患者宅にお詫びに回った。

 この時期、新聞の論調はもはやしめくくりの段階に入ったようだったが、石牟礼は水俣病事件の最後の深淵がゆっくりと口を開くのはこれからだと気を引き締めた。
 
 ここで第1部が終わる。

苦海浄土 4  2018年 1月26日(金)

第2部 神々の村
昭和44年(1969)
 「4万5千人のいのちと水俣病患者100人あまり、どちらのいのちが大切か」という論理で水俣市民に憎まれる患者たち、その患者間でも生活保護費を引き剥がそうとする密告者がでてくるような悲惨な状況が続く。市民や患者、弱者同士の足の引っ張り合いは悲劇。

 石牟礼は潜在水俣病患者を掘り起こす調査をしたり、実情を把握するため何度も患者やその家族を見舞う。死亡した患者の解剖にまで立ち会っている。患者やその家族の心情を共有し、患者の心情や現状を見事な文章で描き出す。患者たちからは「あねさん」と呼ばれていた。

 渡辺京二らは「水俣病を告発する会」を熊本につくり、チッソ工場前で抗議活動。

 患者互助会水俣病対策市民会議の要望にも関わらず患者救済策はなかなかでてこない。チッソやチッソを護ろうとする厚生省の卑劣な策で、水俣病補償処理委員会が立ち上がり、患者互助会は補償案をこの委員会に一任する「一任派」と裁判で補償を勝ち取ろうとする「訴訟派」に分かれた。

 6月14日、互助会の訴訟派は、チッソを相手取り、総額6億4千万円の慰謝料請求の訴えを熊本地裁に提起。

昭和45年(1970)
 水俣病補償処理委員会は5月に斡旋案の回答を予定。それは死者に最高300万円の一時金、生存者には32万円、ないしは16万円程度の年金を払うと案になりそう。なんと人命の価値の低いこと!

  水俣病補償処理委員会の回答を阻止しようと、5月14日15日、患者と家族が厚生省前に座り込む。そのとき橋本龍太郎厚生政務次官(32歳)が患者に暴言を吐いたらしい。有能で将来を期待されていた政治家の傲慢さに矢っ張り!という感じ。

 5月25日、熊本からの「告発する会」の会員や東京在住の支援者によって、厚生省の補償処理案提示会場の占拠が実行された。石牟礼のその占拠組を志願したが足手まといと一蹴された。占拠組に宇井純の名前があった。東大で20年間も助手のままだったが左翼の有名人だったという記憶がある。水俣病に深く関わっていたことはこの本を読んで初めて知った。ネットで調べると宇井は、「水俣病の悲惨なことは話さず『悲劇あり,喜劇あり,とんでもねえ物語だ』とだけ言っていた。」というのがあった。

 5月22日~28日の間になされた一連の阻止行動は、「阻止行動によってチッソ、厚生省、処理委の犯罪性が暴露されたと参加者たちは評価した。

 11月28日チッソ株主総会(会場 大阪厚生年金会館)に一株株主として水俣病患者が出席。それまで顔を見せなかったチッソ社長に逢うために。水俣病を告発する会、訴訟派の患者、市民会議の会合で作戦が練られた。 11月24日に水俣を出発した水俣病患者高野山巡礼団19名は全身白装束の巡礼姿で会場に到着し、全国からの一株株主達と共に、告発する会会員や学生などの支援者に護られ入場した。一株株主の隊列は300メートルもあり「怨」を染め抜いた黒地の吹き流しは700本もあった。

 婆さまや女房グループ巡礼団のご詠歌が会場に響き渡った。それは聞く者の心を打つ感動の情景であった。

 議事が始まり、ずっとチッソの社長と話をしたいと願っていた巡礼団は舞台に駆け上がり社長に想いをぶちまけ、会場は大混乱。

 常に患者に寄り添い行動を共にしてきた石牟礼は常に記録者の立ち位置にあったが、この日は舞台にあがる時期と舞台から引き揚げる時期を即断し巡礼団に明確に指示をだした。

 翌日、巡礼団は高野山に御参りした。

  巡礼団が大阪に来た昭和45年、私は大学院修士2年だった。阪大での学生紛争が終焉し修士論文の最後の詰めで、自分のことで手一杯の時期とは言え、何も覚えていない。水俣病もよくある公害の一つという程度の意識しかなかった。恥ずかしい。

 石牟礼は事実を実名で正確に記録した。怒りはかなり抑え気味に書いているが、橋本龍太郎、補償処理員会委員やチッソ社長、また熊本県公害対策委員長などがこの記録を目にしたら何を思うのだろう。

苦海浄土 5 2018年 1月28日(日)

第3部
 
石牟礼が尊敬し慕った細川一医師が昭和45年10月11日に死去。石牟礼が細川と直接話せたのは四,五回だけだが、細川の業績や人柄に深く魅せられていた。臨終が間近に迫る頃映画「水俣」に細川一家を撮ろうと東プロダクションは企画したが断られ、映画スタッフは石牟礼が細川と会う場面だけでも撮りたいと石牟礼に依頼するが、断り続けたという。石牟礼の細川への敬慕がそうさせたのだと思う。

 見舞ったとき「あの子供たち・・・・ずいぶん大きくなったでしょうね。どうしていますかしら・・・」と聞かれる。細川カルテにあった胎児性水俣病の子供たちのことである。元気にしていますと言えばそらぞらしい。「おおきくなりました」と。

 第3部は川本輝夫が中心になって話が進む。川本は何回も水俣病認定申請を出した上で自力で認定を勝ち取る。その間もそれ以降も「隠れ水俣病」患者を掘り起こし認定を勝ち取るサポートを続ける。水俣病市民会議告発する会の会員にも「隠れ水俣病」患者を見つける臭覚を持つ人がでてきて川本に協力する。

 昭和46年(1971)10月6日になって川本輝夫らが新たに認定された

 川本グループの患者は昭和46年にチッソとの直接交渉(自主交渉)を開始する。告発する会や学生は全力で支援に当たる。しかし市民会議には突出する川本グループへの支援にためらいが見られた。

 7月3日の自主交渉のテープ記録が601頁~609頁にある。チッソと患者たちのやり取りは興味深い。

 同年11月には自主派グループはチッソ水俣工場前で座り込む。12月には自主交渉の場を東京本社4階に移す。本社から強制排除された学生支援者は本社前路上にテントを設置。朝ビラまき、昼は4階チッソへ交渉要求の申し入れ、夕方街頭カンパとフル稼働。

 「支援者は患者の前に出ず下働きに徹すべし」と熊本水俣病を告発する会は抑制的な方法論で全面支援。石牟礼は「このような運動ではいかにおのれを無にして働くかが自分の志への唯一の踏み絵となる。ことに水俣病受難史の中では、筆者などは、一種の羞恥に頬かたむけながら隠れて働く人々に助けられ続け、ほとんど患者なみに手厚い保護さえ受けて余命を保ち、このような文章を書き、いたずらに虚名のみを残すことになる」と書く。1972年の6月に白内障手術を受けることになる石牟礼は本社での自主交渉中からほとんど左目は見えていなかった。

 支援者には、吉野源三郎、丸山邦男、なだいなだ、矢内原伊作、望月優子、木下順二、野坂昭如・・・・など多数の著名人。なるほどと納得する人が多い。

 川本が検挙されたとき、救おうと支援者に抗議書への蓮著の依頼の電話をかけ続ける石牟礼に一人の著名氏が、「あなたはそういうことをせずに、じっと辛抱して書くべきですよ作品を。多数の人間の、役にも立たない抗議文書より、一人の人間の思いをこらした文学がどんなに効果を発するか。あなたも知らないわけはないでしょう」と忠告したという。そのおことばは胸に応えた。応えすぎた、と石牟礼。

 自主交渉を支援するの「告発する会」のメンバーや学生達は、カンパや支援のための広報に全力でしかも無償で取り組んだ。しかし、患者たちの受け止め方は様々だった。集まったカンパが支援者たちの「給料」になっていると誤解したり、カンパ金は全学患者に分配すべきと考える人が多かったらしい。支援に必要な経費(印刷費を含む情宣費、電話代など)が高額支出になるということについては理解出来なかったらしい。

 1973年3月20日には、熊本水俣病第一次訴訟に対しても原告勝訴の判決が下された。すでに熊本県で水俣病が発生したあとに起きた新潟水俣病の場合と異なり、熊本での水俣病の発生は世界でもはじめての出来事であった。そのため、熊本第一次訴訟で被告のチッソは「工場内でのメチル水銀の副生やその廃液による健康被害は予見不可能であり、したがって過失責任はない」と主張していた。判決はこれについても、化学工場が廃水を放流する際には、地域住民の生命・健康に対する危害を未然に防止すべき高度の注意義務を有するとして、公害による健康被害の防止についての企業の責任を明確にした。

 判決前後、弁護団と県民会議は、全国の社・共連合戦線と総評系労働運動を背景として、患者の闘いを「水俣病裁判勝利」と祝う全国公害反対闘争のおまつりさわぎの中にからめとろうとして、判決前後、全国的に大動員をかけている。しかし注目すべきなのは、その中で日共の指導権が日増しに強化されていることである」。 それまで何も支援してこなかった日共は、患者の闘いを、党派的利害のために成果を収奪しようとするハゲタカであると、日共を毛嫌いしている。日共は大学紛争の時にも同じことをしていたなと私は理解する。

 判決後、自主交渉派と訴訟派の患者がチッソと交渉するのを支援する「告発する会」は訴訟弁護団や県民会議と決別した。社・共連合戦線と総評系労働運動のように組織の論理で行動する団体と、患者個人の救済を最優先に考えるグループとの確執が露骨になった勝訴判決だったのでしょう。

 チッソと自主交渉派13名と旧訴訟派29名のチッソとの第一回交渉は昭和48年(1973)年3月22日にあった。これもテープ記録としてこの本に掲載されている。よく練られた交渉戦術がうかがえる。

 第3部があつかった昭和45年から48年の間にも多数の水俣病患者が亡くなった。石牟礼はそれらの人々の死をいかにも彼女らしく詩的に記録した。

 長い長い読後感になりました。読むのが辛かったけれど、読んでよかったと思っています。水俣病や石牟礼道子のその後についても調べてみようと思います。
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