吹田市藤白台三色彩道
月別アーカイブ: 2014年11月
辞書になった男
この本を読もうと思ったきっかけは2014年11月11日の毎日新聞朝刊の特集記事でした。
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「辞書の冒険」という連載特集の7回目で「赤瀬川原平さんがみた”新解さん”」という記事。赤瀬川さんの「新解さんの謎」という著書を紹介している。新解さんというのは三省堂の「新明解国語辞典」のことで、新解さんと呼んだのはこの辞書に主張や好き嫌いをもった人格を感じたからだという。この辞書の第4版までは山田忠雄という国語学者で辞書編纂者がほぼ一人で書き上げたものだという。
「辞書になった男ケンボー先生と山田先生」によると山田の辞書編纂の方針は1.語釈で他の辞書のまねをせず独創性を重視、2.単なる言い換えの語釈をさけ長文をいとわずに説明しきる、3.言葉の裏の意味も(カッコ書きで)説明する、4.辞書は文明批評、などでした。その結果、あまりの独創性に批判を受けたが、それ以上に支持もされた。現在の辞書は第7版で語釈もかなり変わっているが、その特徴は受け継がれているという。
家には息子が持っていた新明解国語辞書第三版があり、一太郎には第七版が組み込まれている。さっそく新聞に紹介されていた新明解国語辞書の特徴的な語釈を確かめた。
【世の中】
第三版 <同時代に属する広域を、複雑な人間模様が織りなすものと捉えた語。愛し合う人、成功者と失意・不遇の人とが構造上同居し、常に矛盾に満ちながら、一方には持ちつ持たれつの関係にある世間。>
まるで哲学のようです。第7版ではかなり普通の語釈に変わっています。それでもユニークです。
第七版 <(一)社会人として生きる個個の人間が、だれしもそこから逃げることのできない宿命を負わされているこの世。一般に、そこには複雑な人間関係がもたらす矛盾とか政治・経済の動きによる変化とかが見られ、許容しうる面と怒り・失望をいだかせる面とが混在するととらえられる。「物騒な世の中」「世の中〔= 現世〕がいやになる」>
【読書】
第三版 <(研究調査のためや興味本位ではなく)教養のために書物を読むこと。(寝ころがって読んだり雑誌・週刊誌を読んだりすることは、勝義の読書には含まれない)。>
寝転んで読むのは読書ではないのだ!第七版にもこの部分は生きている。
第七版 <〔研究調査や受験勉強の時などと違って〕
一時(イツトキ)現実の世界を離れ、精神を未知の世界に遊ばせたり 人生観を確固不動のものたらしめたり するために、(時間の束縛を受けること無く)本を読むこと。〔寝ころがって漫画本を見たり 電車の中で週刊誌を読んだり することは、本来の読書には含まれない〕>
大抵は第7版の方が少し普通っぽい表現になっているが、たまに第七版の方が頑張ってると思うのもある。
【初恋】
第三版 <その人にとって初めての恋。>
第七版 <少年少女時代(青年初期)の、うたかたと消えた恋。>
この記事で新明解国語辞書が面白いと分かり、もっといろいろと知りたいので、早速、「新解さんの謎」と「辞書になった男ケンボー先生と山田先生」をAmazonで探したところ前者は一時的な品切れ状態だったので、まず「辞書になった男ケンボー先生と山田先生」を注文しました。
「辞書になった男
ケンボー先生と山田先生」
佐々木健一 著、文藝春秋、2014年
作品紹介 2013年にNHKBSで放映され、ATP賞最優秀賞(情報・バラエティ部門)に輝いた、『ケンボー先生と山田先生~辞書に人生を捧げた二人の男』がついに書籍化!
辞書は小説よりも奇なり。 これはことばに人生を捧げた二人の男の物語です。
『三省堂国語辞典』と『新明解国語辞典』を知っていますか? 両方合わせて累計三千万部の国民的ベストセラーです。お世話になった人、なっている人も多いでしょう。
でも、この二冊を書いた見坊豪紀(ひでとし)と山田忠雄のことはほとんど知られていません。この二人、実は東大の同期生。元々は二人で一冊の辞書を作っていました。 その名は『明解国語辞典』。戦時中に出されたその辞書は字引の世界に新たな新風を吹き込みました。戦後も二人の協力関係は続きますが、次第に己の理想を追求して別々の道を歩みはじめ、見坊は『三省堂国語辞典』を、山田は『新明解国語辞典』(赤瀬川原平さんの『新解さんの謎』でブームとなった辞書です)をほぼ一人で書き上げることになりました。
一冊の画期的な辞書を作った二人の人生が、やがて戦後辞書史に燦然と輝く二冊の辞書を生みだすことになったのです。しかし――。『新明解』が出された一九七二年一月九日。 ついに二人は訣別のときを迎えます。以後、二人は会うことはありませんでした。
一冊の辞書がなぜ二つに分かれたのか? 二人はなぜ決別したのか? 二人の人生をたどりながら、昭和辞書史最大の謎に迫ります。
(文藝春秋HP)
面白かった。本の紹介は上のHPとそこに引用されている「批評・インタビュー」で言い尽くされているので面白いと思ったことをいくつか書きとめる。
1.辞書は多数の記載項目を担当する多数の著者(執筆者)がいて、その原稿を少数の監修あるいは編集者がまとめるものだと思い込んでいた。それがほとんど全部を一人でやりとげた人が二人もいた。吃驚!
2.辞書によって個性がある。編集責任者の個性が露骨にでる。
ケンボウ先生の三省堂国語辞典も持っているとこの本がもっと楽しめるでしょうね。
三省堂国語辞典(三国) 新明解国語辞典(新明解)
天才ー見坊豪紀(ケンボウ先生) 鬼才ー山田忠雄(山田先生)
現代語のプロ 古典文献の著名な研究者
語釈は客観的で短文・簡潔 主観的で時に長文・詳細な説明が見られる
自己主張の塊 つぶやきのような用例
積極的に現代語を取り入れる ことばの選択には慎重で規範的 辞書の専門家は高く評価 素人のフアンは多いが専門家からは低い評価
3.金田一京助
言語学の大家で多数の辞書の監修・編集者として名前がでてくる有名人、ぐらいに思っていた。実際はアイヌ語の研究に一生を捧げた人で文化勲章までもらっている。
ウィキペディアには次のような記載がある。金田一の名を広く一般家庭にまで広めたのが『明解国語辞典』(三省堂書店、1943年)だが、「金田一京助 編」と表紙に書かれたこの辞書に金田一本人はほとんど関与していない。同辞書は当時まだ東京帝国大学大学院に在学中の見坊豪紀がほぼ独力で編纂したものである。しかし院生の名で辞書を出すわけにもゆかず、三省堂に見坊を紹介してくれた金田一の名を借りることにした。京助の長男でやはり言語学者の金田一春彦によると、「金田一京助 編」と銘打った辞書は多いが、「お人好しゆえあちこちに名前を貸しただけ」のことで、実際には辞書は一冊も手がけていないという。
金田一の息子・春彦は、「京助先生は(明解国語辞書)の原稿を一行もお書きにならなかった?」というインタビューアの質問に答えて「一行も書きません。そうゆうこと向きませんよ、あの人は。二、三枚読むともう飽きちゃうんです」とあっけらかんと答えている。
しかし、ケンボウ先生は「(金田一)先生が全責任をとって最後の一行までご校閲くださいました『明解国語辞典』が、さいわいに好評をもって四に迎えられ、」と金田一への弔辞で延べたように最後までウソを突き通す。
一方、山田先生は形だけの監修者、編集者というのを許容できない人だったので、新明解国語辞典を出すときから金田一京助の名を落としたいと思っていた。しかし三省堂の営業戦略に合わず、新明解から金田一の名前が消えたのは、山田先生の死の9年後の2005年の第六版になってからだった。それも三省堂が春彦にお伺いを立て「京助はこういう形の辞書(新明解)を望んでいなかった」という答えを得てからだったという。
辞書の著者・編集者の名前順にもドラマがあった。私たちの研究論文の著者順にもいろいろの思いがあった。そのいくつかを思いだしながら読んでいた。
4.「暮しの手帖」(1971年2月)が「国語の辞書をテストする」で、当時の辞書界に蔓延していた”盗用・剽窃”体質を暴き出した。おまけに盗用・剽窃のもっともみっともない証拠、一つの辞書の間違いの語釈が他のいくつもの辞書にそのまま引き継がれていることを告発した。親亀コケたら・・・・、だがその親亀も突き止められていて、なんと「明解国語辞書」の改訂版のことだった。
こうした事態を誰よりも怒り憂いたのが山田先生で、革新的な「新明解」を誕生させることにつながった。
5.辞書の改版で、言葉の説明(語釈)がここまで変化し続けているとは思いもしなかった。同じ語なら単純な間違いを修正するだけだろうと思っていた。
新明解の「よのなか」【世の中】
(第一、二版
①人人が互いにかかわりあいを持って住んでいる所。世間。社会。
(第三版)
①同時代に属する広域を、複雑な人間模様が織りなすものと捉えた語。愛し合う人、成功者と失意・不遇の人とが構造上同居し、常に矛盾に満ちながら、一方には持ちつ持たれつの関係にある世間。
(第七版)
①社会人として生きる個個の人間が、だれしもそこから逃げることのできない宿命を負わされているこの世。一般に、そこには複雑な人間関係がもたらす矛盾とか政治・経済の動きによる変化とかが見られ、許容しうる面と怒り・失望をいだかせる面とが混在するととらえられる。「物騒な世の中」「世の中〔= 現世〕がいやになる」
下の例は版によるいうよりは編集主幹の差かな。
新明解の「れんあい」【恋愛】
(第3,4版)
特定の異性に特別の愛情をいだいて、二人だけで一緒に居たい、出来るなら合体したいという気持ちを持ちながら、それが、常にはかなえられないで、ひどく心を苦しめる。(まれにかなえられて歓喜する)状態。
(第5版)
特定の異性に特別の愛情をいだき、高揚した気分で、二人だけで一緒にいたい、精神的な一体感を分かち合いたい、出来るなら肉体的な一体感も得たいと願いながら、常にはかなえられないで、やるせない思いに駆られたり、まれにかなえられて歓喜したりする状態に身を置くこと。
(第7版)
特定の異性に対して他の全てを犠牲にしても悔い無いと思い込むような愛情をいだき、 常に相手のことを思っては、二人だけでいたい、二人だけの世界を分かち合いたいと願い、それがかなえられたと言っては喜び、ちょっとでも疑念が生じれば不安になるといった状態に身を置くこと。
6.編集主幹でもないのに辞書を全部読んだ人がいた。武藤康史だ。次のようなことを書いている。
以前、私はこれ(新明解の第三版)を通読して語釈のすばらしいものベスト10を勝手に選定して死まった。それは読書・恋愛・必要悪・凡人・俗人・口惜しい・きしむ・精神・実社会・世間知である。恋愛の語釈は特に長いが私は感動のあまり暗記した。じつはこれを暗記することが私の宴会芸の一つになっている。
TNの新明解は第三版なので早速、楽しめた。
7.じてん【時点】(新明解 第4版)の用例「一月九日の時点では、その事実は判明していなかった」の日付一月九日の謎を解いたことが著者に二人の辞書編纂者の秘められた心情を、国語辞書の記述から紐解くことが出来るのではという野望を与え、それが出来たのでこの本を出版したのだろう、と読者に錯覚させるほどに両辞書の語釈や用例にこめられた両先生の思いを解説・紹介する。
辞書からだけで読みとれるはずがないのに読者は期待してワクワクしてしまう。関係者からの取材、インタビュー、文献調査などテレビ番組を作ってきた著者らしい取材手法を駆使してケンボウ先生と山田先生の関係を解き明かす。その流れの中で鍵となる言葉について「新明解」や「三国」の語釈・用例を引用する。そのつどへーと辞書を引くことになる。上手に読者の興味を辞書に向けるなと感心する。
8.新明解は独創的語釈で知られ、本書でも新明解の独特の語釈の紹介が圧倒的に多いのでここでは三国の例だけを取り上げる。ここにも「思い」が紛れ込んでいる。
第二版【ば】の用例「山田といえば、このごろあわないな」
第二版【常識】健全な社会人が共通に持つ、普通の知識または考え方。コモンセンス。 第三版では、その社会が共通に持つ、知識または考え方。コモンセンス。
現三国の編集者の飯間は、他の辞書が「普通の人が・・・・」とか「一般の人が・・・」と書くところを【常識】とはそういうもではないよと、短く、私たちに教えてくれているとし、生涯を通じて「短文・簡潔」解説を貫いたケンボウ先生の”ことばの写生”の究極型だという。
第三版【辞書】の用例、「辞書はできばえだけが問題だ」
9.ブルーフィルム
昭和27年に明解国語辞書(第二版)がでる。その編集者のケンボー、山田、金田一春彦、柴田ら編集会議の後、毎回、ブルーフィルムを喜んで鑑賞していたが山田は観ずに直ぐ帰っていたというエピソードが本の前半に紹介されていた。ここでは堅物・山田を描きたかったのかぐらいにしか思わなかった(TNもこのたぐいのものは嫌いだ)。
ブルーフィルムを辞書に載せたのは新明解だけだった。(初版)秘密のルートで見せるわいせつ映画。第七版まで同じ。
ところが三国の第四版に突然【ブルーフィルム】性行為を写したわいせつな映画。が載せられる。この意味を、最晩年を迎えたケンボウが、自身が掲げる三国の方針に反して、密かに載せた。ケンボーはきっと、四人の編者が顔をつきあわせ、言葉について熱く議論していた頃を思い出していたのだろう。それ以外に現代語辞典を自負する三国が平成になって死語になっているブルーフィルム載せるとということはありえない、最後まで二人の繋がりはあったのだと著者はいう。
10.最後に載ることば 【んんん】
辞書にのる最後のことば、なんとなく意表を突かれた感じ。始まりがあれば終わりがある、当たり前のことが新鮮でした。それが辞書によって異なるという。ちなみに英語は見た限りでは、ZZZ。

























