映画『風に立つライオン』 2015年3月
監督:三池崇史 原作:さだまさし 企画:大沢たかお 脚本:斉藤ひろし
製作:中山良夫
キャスト
大沢たかお(島田航一郎)、石原さとみ(草野和歌子)
真木よう子(秋島貴子)、萩原聖人(青木克彦 )
鈴木亮平(田上太郎)
1980年代のケニア 投稿日:2016年 2月 8日(月)17時20分40秒
昨日、ケーブルテレビの日本映画専門チャンネルで『風に立つライオン』を放映した。前から観たかった映画なので録画しながら観た。原作者は「さだまさし」、まず歌があり、次に小説、そして映画。そんな作り方もありなんだと感心した覚えがある。
小説『風に立つライオン』は、私たちが「さだまさし」が本を出していると知った最初の本で、読んでみるとよかったのでその後、「さだまさし」の本のほとんどを読んだ。
映画のたぶん撮影中に、さだと主演の大沢たかおがケニアを訪ねるドキュメンタリー番組を観た。「さだ」がケニアはその時が初めてと知り芸術家の感性に吃驚、その時から映画でケニアをどう撮すのか楽しみにしていた。
1980年代のケニアの話、TNがケニアに行ったのと同時期なので、どの景色も懐かしく美しかった。ただ、映像は綺麗すぎて、あの時代のケニアの貧しさが伝わってこないような物足りなさが残った。
映画は素晴らしかったので原作をもう一度読んでみようと、早速、図書館で予約。
投稿日:2016年 2月16日(火)18時34分40秒
小説を再読し、映画も見直した。どちらも素晴らしいものでした。映画はほぼ原作にそってつくられていた。
1987年に発表したという歌のイメージがそのまま生かされています。となれば「さだまさし」の発想の原点はやはり歌ということになるのでしょうか。
小説も映画も、主要登場人物がそれぞれの立場から主人公の青年医師(島田航一郎)についての思い出を語る。それを繋いで一つの物語を組み立てていくという手法なので、最初は煩わしい。しかし、話が進むにつれそれが気にならなくなる。
物語の主人公は、1987年に長崎大学の病院からケニア・ナクールにある長崎大学の熱帯医学研究所に派遣され研究だけではなく地域医療にも取り組む。隣国スーダンで戦闘が続き、国境近くのロキチョキオには赤十字国際委員会(ICRC)がスーダン内戦犠牲者救済のために 戦傷外科病院をつくっている。島田はここに応援に出かけ、心に傷を負った元少年兵(ンドゥング)と出会う。少年と真っ直ぐ向き合うことで医師としての生き方を見つめ直す。銃や地雷で負傷した人々が次々に運び込まれてくる過酷な医療の現場で、アフリカの大地に向かって「ガンバレッ」と叫び、自分を鼓舞しながら常に前向きに生きる航一郎、その彼と共にケニアで懸命に働く有能な看護師・和歌子、彼女はやがて航一郎の優しい人間的な魅力に惹かれていく。もう一人重要なキャラクターが、原点となった曲にも登場する、主人公が日本へ残してきた恋人・貴子。アフリカ医療に生涯を捧げたシュバイツァーに感銘を受けて医師になった航一郎が、夢を叶えるためにケニアへ行くことを知りながら、自分は父親が経営してきた離島の個人病院を継ぐことで、医師として彼とは別の道を進む。
国境付近へ往診に出た航一郎は、銃撃に巻き込まれ帰らぬ人となり、遺体は発見されない。
医師となった元少年兵ンドゥングが、2011年の東北大津波の被災地にやってきて大活躍する。
このような物語の展開の中で、人それぞれの夢、優しさ、愛をいかにも「さだまさし」らしく感動的に描いた小説、映画でした。
医療の事や東北被災地に関する話は説得力がありすっと納得出来て、たいていはそうなんだと感心感激しながら読みました。しかし、「さだまさし」が小説を書く前に一度も訪れたこともないというケニアの描写がどうしても気になるのです。TNが1984年と1986年に海外調査でケニアに行っているという特殊事情のためだとは思います。
ノンフィクションではないので事実かどうかはどうでもよいことなのかも知れませんが、映画と小説から1980年代のケニアの臭いがしないのです。風景が綺麗すぎるのです。
作者がたぶん距離を全く実感していないのだと思います。主人公たちが赴任地ナクール周辺の僻地医療の応援や観光に、Kism、Namanngaやケニヤ山、アセンボリ国立公園などに出かける話があります。これらは全部、ナクールからせいぜい300km足らずの距離で、幹線道路が走っていて交通は容易です。しかし、ロキチョキオはまったく違うのです。なのに主人公がナクールからロキチョキオまで1人で車でやってくるという荒唐無稽な感動場面がある。TNはナウルからロキチョキオまでの距離の3分の一ぐらいの所にあるバラゴイでキャンプ生活をしました。その時、途中、Maralalという小さな町で一泊しました。凄い悪路でした。車が故障して動けなくなったらと恐怖でした。取材についてきた時事通信の記者は、途中のサンブルヒルズで「ここは地の果てだ!」と叫びました。そのような荒涼感がまったくなく、地域に住むトルカナ人の体臭もまったく伝わらないのです。
主人公のモデルは外科医柴田紘一郎氏(74歳)だという。それならこの小説や映画でどこまでが事実なのだろうと調べてみました。
JICAのHP「ケニアで医療協力の礎を築いたライオンたち――「風に立つライオン」主人公のモデルはJICA専門家」
ケニアにおける保健医療を、国際社会の中でいち早く支援したのが、JICA(当時OTCA)だった。JICAは開発途上国の医療協力に本格的に取り組み始めた時期で、ケニアとは1963年の研修員の受け入れから協力関係が始まっていた。そして1966年、当時日本で唯一、熱帯医学の研究所を持ち、アフリカでのウイルス疾患や寄生虫疾患などの研究調査実績のある長崎大学の協力を得て、ケニア西部のリフトバレー州ナクールにあるリフトバレー州総合病院(ナクール病院)への支援を開始した。
この協力は、長崎大学医学部と熱帯医学研究所から医師や看護師、検査技師などの専門家をケニアに派遣し、医療活動を支援するもので、1975年まで続いた。10年間で派遣した医師などの専門家は38人。その中の一人として1971年から2年余り派遣されたのが、「風に立つライオン」の主人公のモデルとなった、柴田氏だった。
つまり長崎大学の熱帯医学研究所がナクールにあったというのは事実ではなく、柴田氏はリフトバレー州総合病院(ナクール病院)に派遣され、そこで柴田氏は「ケニアで経験したことは、その後の私の仕事の原点。医師として病を治すということの難しさや、患者と真に向き合うこと、心のケアを学んだ」のだという。
長崎大学医学部・熱帯医学研究所とJICAの関係などは部外者にはまったくどうでも良いことだが、今、「長崎大学熱帯医学研究所アジア・アフリカ感染症研究施設ケニアプロジェクト拠点」というのがナイロビに設立されていつらしい。それなりに興味ある内容がが前拠点長と現拠点長によって紹介されている。
主人公を1987年にケニアに派遣されたとしたのは、ロキチョキオの赤十字病院がこの時期に出来ているので話を膨らまそうとしたためだと思います。それがよかったのかどうか? スーダン内戦が前面に出ててきてケニヤだけの話ではなくなり、話がすっきりしない。
赤十字国際委員会(ICRC)は、1969年からスーダン紛争による負傷者の救援活動を開始し、1987年には、ケニア国内のスーダン国境沿いにあるロキチョキオに紛争犠牲者のためのロピディン外科病院を開設し医療援助を続けている。
主人公と元少年兵ンドゥングや看護師・和歌子との感動物語はロピディン外科病院が舞台になっている。
スーダンの内戦犠牲者救済のために ICRC が設営した戦傷外科専門の病院で、南スーダンのジュバの病院が政府軍の犠牲者を収容するのに対し反政府軍側の犠牲者を収容するために設営された病院らしい。
病院を立ち上げたヴィンセント・ニコICRC前駐日代表は以下のように当時のことを回想している。
「ロキチョキオに入ったのは1986年。隣国スーダンの南部(現在の南スーダン共和国)で武力紛争が激化したころで、ロキチョキオは救援活動の拠点になっていました。
当初は人びとへの食料支援が目的でしたが、戦闘による負傷者が多かったため医療活動も展開することになりました。初めはケニア政府からICRCに提供された敷地内にテントを立てただけでしたが、翌87年に場所を移動して病院を開設。医療救援活動はそれから19年間続きました。
現地は道路も水も電気もないという状態。道路があれば車を使って1時間で行けるところを、道を作りながら1週間もかけてトラックを進めたものです。
地域に住むトゥルカナ族の人びとはわれわれとは言葉も文化も違うので、最初は文化人類学者に同行してもらってアドバイスを受け、現地の慣習などを尊重しながら受け入れてもらう努力を重ねました。」
ケニヤに行ったことがない作者が、ロキチョキオを舞台の「お話」にリアリティを持たせるのはやはり至難です。特に主人公がナクールからロキチョキオの病院まで1人で車を運転して帰ってくるなんていうお話、これは無理です。80年代にケニアのサバンナをドライブした経験があれば決してそのような夢物語を作り上げないでしょう。車は高価で、ほとんどが中古車、頻繁に故障する。非舗装の悪路が延々と続く。途中にガソリンスタンドは皆無。などなど・・・・。
くどいですが同じことを書きます。
TNはナウルからロキチョキオまでの距離の3分の一ぐらいの所にあるバラゴイで1984年と1986年にキャンプ生活をしました。その時、途中、Maralalという小さな町で一泊しました。凄い悪路でした。車が故障して動けなくなったらと恐怖を感じました。取材についてきた時事通信の記者は、途中のサンブルヒルズで「ここは地の果てだ!」と叫びました。そのような荒涼感がまったくなく、地域に住むトルカナ人の体臭もまったく伝わらないのです。
フィクションとは言え、モデルがあるとするなら事実をもう少し忠実に描いて欲しかったなと思います。それでも感動ものの作品であることは否定しません。
蛇足ですがすばらしい歌詞に気になるところがあります。
「ビクトリア湖の朝焼け 100万羽のフラミンゴが
一斉に翔び発つ時 暗くなる空や
キリマンジャロの白い雪 ・・・・・・・」
美しい歌詞です。これで皆さんにはビクトリア湖のフラミンゴというイメージが出来上がっているようなのですが、私には違和感があるのです。例え100万羽でもフラミンゴでビクトリア湖の空が暗くなるとは思えないのです。ビクトリア湖は広大すぎるのです。歌詞のの情景に当てはまるのはフラミンゴで最も有名なナクール湖であり、写真集「Face of Kenya」にあるLake BogoriaやLake Magadiなどだと思います。![]()
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TNが見た1980年代のケニヤ
1984年の約2ヶ月間のケニア生活で最も強く印象に残ったのは、ケニアの人々の貧しさでした。日本人の顔をみれば、お金や物をせびる子供そして大人達に、今までの海外調査で味わったことのない、不快感を味わいました。衣食住足りてこそ、礼節やプライドと、のんきなことが言えるのかと実感しました。しかし人夫達との付き合いが深まるにつれ、不快感は消え、彼らを私なりに理解出来るようになりました。物を持っている人が、持たない人に与えるのは彼らにとって当然すぎることだったのです。1日分の日当(約300円)をはたいて買ったタバコを、仲間にほとんどとられて平気な愛すべき人達の多いことにあきれました。