広岡公夫さんを偲んで

以下は「掲示板 花だより」の関係記事をまとめ一部修正し再掲したものである

2018年12月26日

 私にとって最も大事な人の一人であり、恩師ともいうべき広岡公夫(80歳)さんが亡くなった。
 今朝、外出中、携帯に「広岡公夫」の表示、あれ珍しいとでると息子さんから、「通夜」だと・・・。落ち着け、落ち着けと言い聞かせながらもパニック状態。

 通夜、馴染みの日蓮宗のお経だったので唱和しながら泣きました。急なことで連絡がつかなかったのか、次男家族と親類の女性1人、親戚以外では私(中島正志)、夏原信義、中村浩の3人だけでした。
 寂しいけれど心のこもったお別れの会でした。

2018年12月27日
葬式
13時半から14時半
公益社 石橋会館

 長男と親類の方々が多数出席されました。富山大学、大谷女子大学、福井大学、大阪大学の関係者も多数参列しました。
 なんで喪主や遺族をきちんと紹介しないのかなど葬儀屋に対する疑問がいくつも頭をよぎり疲れました。
 「家族葬」と呼ぶべきものの中に、広岡さんの友人や弟子が混じっているという感じなのでしょう。町内(近隣)の人の参列が皆無の葬式は初めての経験でした。だんだんこうなるのでしょう。
 またTNがブツブツ言っていると広岡さんは笑っていたでしょうね。夜、夏原君と電話で。次は誰になるかは分からないけれど、各自、それなりの準備をしておこうと。夏原くんは知らせるのは中島と鳥居雅之君だけで良いといってあると。
それなら私は夏原、鳥居、藤井純子の3人かな・・・。

 広岡家は日蓮宗、我が家も同じなので、月参りやお盆などで読経しながら広岡ご夫妻のことを思います。

広岡公夫さんを偲んで 1

 私にとって最も大事な人の一人であり、恩師ともいうべき広岡公夫(80歳)さんが、2018年12月24日の夜、突然に亡くなられた。通夜・葬儀が済んだ今も悔しく未練が残る。

 大阪大学基礎工学部材料工学科の学生だった時から、50年以上の長きに渡ってずっとお世話になってきた。基礎工は阪大の中でも新しい学部で材料工学科が開設された1962年に川井直人先生が京都大学理学部から教授として、その翌年、広岡さんが京大理学部の博士課程を中退し助手として赴任された。当時、広岡さんは川井先生のまさに片腕で川井研究室の事務の全てを任され、超高圧物理と古地磁気学の研究に取り組んでおられた。
 広岡さんは3年生の学生実験を担当されていたが私は指導を受けた覚えがなく、実際に指導していただいたのは4年生(1967年)になって川井研究室に所属してからであった。
 川井研究室で、最初は澤岡助手のマイクロボンベを使った高圧実験の手伝いをしていたが、いつの間にか広岡さんの古地磁気測定室に入り浸るようになっていた。ここには広岡さんの他に修士課程の時枝克安さん(島根大学名誉教授)と測定補助の中路佳子さん(時枝夫人)がおられ楽しい雰囲気で研究が進められていた。大学院に進学する時もう一度高圧物理か古地磁気かの選択に迷ったがやはり古地磁気を選んだ。
 川井先生と広岡さんは京都大学では地質学鉱物学教室で古地磁気学が主な研究テーマだったが、基礎工では物性物理を教える学科なので「超高圧物理」が主たる研究テーマということになっていた。実際には広岡さんの主テーマは古地磁気学で、川井先生は古地磁気は趣味という感じだった。しかし、川井先生も私が古地磁気を選んだとき内心では喜んでくれていたと思っている。

1967年の広岡さん、川井先生、中島 


 
 修士課程は忙しかったが充実していた。
 毎週のように堺市の泉北丘陵に分布し発掘調査がされた須恵器古窯にでかけ、考古地磁気用試料を採取した。研究室ではその残留磁化測定を手分けして続けた。広岡さんの学位論文となる地磁気永年変化の研究のためであった。この試料採取には技官であった夏原信義君も時々参加してくれた。夏原君はその試料採取の方法を色々と改良・開発してくれた。現在の古地磁気試料採取・測定方法のほとんどは夏原君が開発してくれたものである。また当時大阪府の教育委員会にいた中村浩君(大谷女子大学名誉教授)とも親しくなった。

1968年12月10日~69年1月22日
「セイロン島における考古地磁気の研究」
科研費 代表:川井直人(阪大教授)、広岡公夫(阪大助手)、時枝克安(阪大修士2年)、中島正志(阪大修士1年)の4人

 上の科研費が認められ、古地磁気研究を始めたばかりの私までインド、セイロンに出かけることになった。この時の記録はTN&TN's Blog(2015年7月29日)「海外調査の思い出(2)-セイロン」に詳しいのでここでは省略する。海外は初めての私や時枝さんの面倒を最後まで見てくれた広岡さんに感謝し続けている。

コロンボの考古学局にて

 
 広岡さんの家は大学の近くの池田市井口堂にあった。時々、そこでご馳走になった。奥様は美人で可愛く、いつも「中島くん」と呼んでくれ可愛がっていただいた。結婚記念日には必ずホテル(六甲だったか宝塚だったか?)にステーキを食べに行くという話が羨ましかったことを覚えている。
 修士2年(1969年)になって修士論文のテーマが「日本列島の折れ曲がり」に決まった。最初の「日本列島折れ曲がり」説は1961年のKawai, Ito and Kume 論文で公表された。この時は折れ曲がり時期が特定できていなかった。1960年代に河野・植田が日本列島の火成岩の年代測定を精力的に行い結果を公表していたので東北地方の花崗岩の生成年代が明らかになっていた。これらの岩石の古地磁気測定から日本列島の折れ曲がり時期を特定しようというのが修論の目的であった。
 東北大学の植田先生を訪ね年代測定結果が公表されている試料岩石の採取地点を地形図に写させていただいた。初めて他大学の教授室を訪ねた。物怖じしない厚かましい学生に呆れられただろうと後になって冷や汗ものだった事を思い出す。その地形図をもとに広岡さんに東北まで車を出していただき、試料を採取して回った。時枝さんも手伝ってくれた。その頃の広岡さんの車はサニー1000だった。
 その後も何度も広岡さんの車で試料採取のために全国を回った。それで私の車運転の師匠は広岡さんだと、かってに思っている。広岡さんの運転をいつも真似ていたように思う。
 この年、阪大の学生運動はピークに達し学部の建物封鎖まで行われた。封鎖期間中、私たちは試料採取にうちこんだ。秋まで続いた。運動家の学生達を好きにはなれなかったがピケ学生排除に出動してきた機動隊はもっと憎たらしかった。
 研究室の人の動きも慌ただしかった。京都大学で広岡さんの先輩になる安川克己さんが福井大学教育学部助教授から基礎工学部に助教授で転任してこられた。例によって「超高圧物理」を主として研究するという約束だった。福井大学の安川さんの後任として広岡さんが次年度に転出することが決まった。また時枝さんまで島根大学理学部に助手として就職することが決まった。中路さんも時枝さんと結婚するためにやめることになった。次年度からの古地磁気研究は私一人だと思うと肩の荷が重かった。
 年度末になってバタバタと追い込みをかけ修論を仕上げた。基礎工の修論は日本語で良いのに川井先生が英語でないとダメと勘違いして英語で書かなければならなくなった。苦手な英語を自分で書いていては測定が間に合わない。というわけで結局、英文は川井先生が書いたので論文だけ期日前に出来上がっていた。測定結果や結論は締切直前に間に合った。おまけに試料採取だなんだと出歩いたので、講義はさぼりっぱなしで修士課程修了に必要な単位が全く取れていなかった。学務からどうするのだと問い合わせがあり、慌てて先生方に単位を下さいと頼み回った。皆さんレポート提出で単位を出してくれた。たぶん古き良き時代の院生と教授さんとの関係だったのだろうと今も感謝している。(まるで久坂部羊の阪大医学部時代みたいだなと気付き、阪大は気楽なところがあったのかなと)
 修論はKawai, Nakajima and Hirooka でJGG(1971年)に投稿し受理された。

 

広岡さんを偲んで 2

 たった三年間であんなに長くなった。50年分をこの調子で書いていれば大変な量になってしまう。自分史も兼ねてとという厚かましい思惑はすて、できる限り広岡さんの事だけになるようにしてみようと思う。といっても広岡さんと所属を異にするようになってからは、それぞれの交際範囲が増え、時たま交差する関係者とのことを時間立てて思い出すのは至難であり、必然的に書けることもすくなくなる。

 Webで「nkysdy:広岡公夫」で検索すると広岡論文の共著回数と共著者名が分かる。それによると、169:広岡公夫、28:酒井英男、23:中島正志、10:川井直人・・・・となっている。「nkysd:中島正志」では76:中島正志、23:広岡公夫、22:藤井純子、12:川井直人、10:夏原信義・・・・であった。このデータの意味はそれなりに面白いが、広岡&中島は常に共同研究者であったと言えるだろう。

 広岡さんの福井大学への転任は1971年の1月だったので、私たちは1970年中はせっせと試料採取に励み古地磁気研究に打ち込んだ。広岡、中島、夏原で出かけた北海道サンプリングは、学部4年生だった鳥居くんの協力もあり翌年にはJGG論文になった。考古地磁気による地磁気永年変化の解明のため、全国各地の古窯の焼土採取や三宅島での溶岩採取なども実施している。
 1970年の9月から11月に広岡さんは川井先生と時枝さんとでイランに出かけている。その間に福井大学に行く前に学位論文を京都大学理学部に提出しろという話になり、私と夏原君で今までの考古地磁気測定結果の最終整理や図表の作成を分担した。広岡さんの必死の追い込みで「Archaeomagnetic study for the past 2000 years in southwest Japan」として結実した。この学位論文は今も考古地磁気年代推定のための最も重要な基礎資料として使われている。
 この年の寒い日、アメリカからの研究者夫婦を広岡さんの車に乗せ、私は技官の田中さんの車に乗って城崎にサンプリングに出かけた。サンプリングが終わり宿に向かう夕暮れ時、田中さんが橋を見誤り、車は川へ。車は3回転して橋桁にぶつかり停止した。割れたドアの窓ガラスから脱出したが寒さに震えた。転落中、こんなことで死ぬのかと不思議に冷めた気持ちだった。広岡さんも田中さんも学生の私がもしケガをしていたら大変なことになっていたろうと、顔色がなかったことを覚えている。
 忙しさに紛れ広岡さんと分かれる寂しさを紛らわしていたが出て行かれたあとの古地磁気測定室は侘しかった。夏原君や鳥居君たちとよく酒を呑んだ。夏原君の家で酔い潰れていた1971年2月10日、父が急死した。葬式には広岡さんや時枝夫婦が福井、松江から駆けつけてくれた。
 広岡さんは阪大時代はビールも酒もほとんど呑まなかった。しかし、福井に奥様たちが来られるまで酒屋の2階を間借りされていたためか少しずつ酒を呑むようになられた。

1971年7月5日~7月20日,72年5月28日~6月20日
「伊豆・小笠原・マリアナ弧状列島に沿った古地磁気永年変化の研究および古地磁気,K-Ar,Srアイソトープ比の測定による弧状列島の成因の研究」
学振日米科学 日代表:小嶋 稔(東大助教授)、米代表 R.T Merrill(ワシントン大助教授)、座主繁男(東大技官)、広岡公夫(福井大助教授)、川井直人(阪大教授)、青木豊(東大院生)、中島正志(阪大院生)、E.E. Larson(コロラド大教授)、R.L.Reynold(コロラド大院生)、S.Levi(ワシントン大院生)

 1971年と1972年には上のような日米共同研究に参加した。この時の記録は
 TN&TN's Blog(2015年7月14日)「海外調査の思い出(3)-パガン、サイパン、グアム」に詳しい。
 阪大・福井大は地磁気永年変化、東大は年代測定やアイソトープ比の測定、米国組は岩石組成や古地磁気とそれぞれ得意分野が少しずつ異なるが、研究への興味は重なっていて結構よいチームだった。この調査で、東大やワシントン大、コロラド大の研究者たちと一緒に調査をして、阪大グループの研究方法や技術にそれなりの自信を持てたことが最大の収穫だったように思う。
  当時、火山岩の古地磁気測定で確かめたいと思っていたことを、パガンでいろいろやってみた。後に結論が出たものもあるが、検証できなかったものもある。写真をみているとそのいくつかの試行を懐かしく思いだす。広岡さんも私も若かった・・・。
  為替が固定レートだったのは1972年まででこの旅行が最後でした。そして、大学院生を研究者として遇し正規の調査隊員にしてくれる最後ということでした。その後は大学院生を海外に連れて行くときは臨時に教務職員に採用した形にするようになった。学生では事故が起きたときの保障ができないからという理由らしい。

 この日米共同研究は私の学位論文にも繋がるだろうという思惑が私や川井先生にはあった。しかし、琵琶湖での200mコア試料の古地磁気研究という仕事が舞い込み事情は一変した。川井研究室の古地磁気関係者全てを動員しなければならない大仕事になり私はこれにかかりきりになった。コア試料を福井大学の積雪研究室に保管して貰った。そしてそのコアを夏原君が制作したカッターで縦半分に切断し、一辺2cmのプラスチックキューブを連続して埋め込み、それをコアから取り出し残留磁化測定用試料とした。この作業を福井大学で実施したので、広岡さんには随分お世話になった。
 測定しなければならない試料が6000個以上あり、皆さんの協力を仰ぐしかなかったが私はほぼ毎日、研究室に泊まり込んでいた。
 結果として「Secular Variation of Geomagntic Field in the Quternary」という学位論文になった。またもや夏原君が私のドタバタを見かねて図表の作成のすべてをやってくれた。また鳥居君、浅井君、高木君にも助けて貰った。本当に皆様のおかげでした。

 博士課程修了後の二年間(1973年、1974年)は日本学術振興会の奨励研究員として引き続き川井研究室で研究生活を続けた。東大海洋研と共同で、海洋からのコア試料についても測定を始めた。広岡さんとの協力関係は密接で多数の論文になって残っている。

1970年 城崎サンプリング

1971年 パガンにて


1969年~1975年の広岡さんとの共著論文
1.Kawai, N., Hirooka, K. and Nakajima, T., 1969, Palaeomagnetic and Potassium-Argon Age Informations Supporting Cretaceous-Tertiary Hypothetic Bend of the Main Island Japan. Palaeogeography, Palaeoclimatol., Palaeoecol., Vol.6, pp.277-282.
2.Kawai, N., Nakajima, T., Torii, M., Hirooka, K. and K. Yaskawa, 1971, On a Possible Land Block Movement of Hokkaido Relative to the Main Island of Japan. J. Geomag. Geoelectr., Vol.23, pp.243-248.
3.Kawai, N., Nakajima, T. and Hirooka, K., 1971, The Evolution of the Island Arc of Japan and the Formation of Granites in the Circum-Pacific Belt. J. Geomag. Geoelectr., Vol.23, pp.267-293.
4.Kawai, N., Hirooka, K., Nakajima, T., Tokieda, K. and Toshi, M., 1972, Archaeomagnetism in Iran. Nature, Vol.236, pp.223-225.
5. Kawai, N., Nakajima, T., Yaskawa, K., Hirooka, K. and Kobayashi, K., 1973, The Oscillation of Field in the Matuyama Geomagnetic Epoch. Proc. Japan Acad., Vol.49, pp.619-622.
6.Kawai, N., Nakajima, T., Hirooka, K. and  Kobayashi, K., 1973, The Transition of Field at the Brunhes and Jaramillo Boundaries in the Matuyama Geomagnetic Epoch. Proc. Japan Acad., Vol.49, pp.820-824.
7.Kawai, N., Nakajima, T., Hirooka, K. and Kobayashi, K., 1973, The Oscillation of Field in the Matuyama Geomagnetic Epoch and the Fine Structure of the Geomagnetic Transition. Rock Mag. Paleogeophys., Vol.1, pp.53-58.
8.Larson, E.E., Reynolds, R.L., Merrill, R., Levi, S., Ozima, M., Kinoshita, H., Zasshu, S., Kawai, N., Nakajima, T. and Hirooka, K., 1974, Major-element Petrochemistry of Some Extrusive Rocks from the Volcanically Active Mariana Islands. Bull. Volcanolog., Vol.38, pp.361-377.
9.Larson, E.E., Reynolds, R.L., Ozima, M., Aoki, Y., Kinoshita, H., Zasshu, S., Kawai, N., Nakajima, T., Hirooka, K., Merrill, R. and Levi, S., 1975, Paleomagnetism of Miocene Volcanic Rocks of Guam and the Curvature of the Southern Mariana Island Arc. Geol. Soc. Am. Bull., Vol.86, pp.346-350.
10.Levi, S., Merrill, R., Larson, E.E., Reynolds, R.L., Aoki, Y., Kinoshita, H., Ozima, M., Kawai, N., Nakajima, T. and Hirooka, K., 1975, Paleosecular Variation of Lavas from the Marianas in the Western Pacific Ocean. J. Geomag. Geoelectr., Vol.27, pp.57-66.
11.Kawai, N., Nakajima, T., Tokieda, K. and Hirooka, K., 1975, Palaeomagnetism and Palaeoclimate. Rock Mag. Paleogeophys., Vol.3, pp.110-117.

 

広岡さんを偲んで 3

 

  阪大時代のことは不思議に良く覚えている。しかし、福井大学に移ってからのことは記憶が定かでないことが多く、色々な出来事を時間順に追うのは至難である。とにかく確かだと思えることだけを記した。

 1975年4月~1978年9月は大阪大学基礎工学部附属超高圧実験施設の助手だった。川井先生の念願がかなって開設された実験施設、その施設での研究活動が軌道にのるまでは施設運営に全力をつくせという意味もあり助手なのに一年間は「学生実験担当免除」という珍しい扱いを受けた。それはありがたかったが、例によって超高圧物理に専念すべきで古地磁気研究には手を出すなと材料工学科(後に物性物理工学科)の教室主任から厳命を受けた。広岡さんの助手時代の苦労をその時、身にしみて知ることになった。しかし、広岡さんのやり方を学んでいたので、私も古地磁気研究から完全に離れたことは皆無だった。この時代に学部学生・院生だった鳥居(岡山理科大)、乙藤(神戸大)、佐藤(広島大)、酒井(富山大)、渋谷(熊本大)の諸君は後に大学に職を得て古地磁気研究者になっている。現役は渋谷君だけになった。

  1978年4月、広岡さんは富山大学理学部教授に転任、私はその後を追って10月1日付けで福井大学教育学部助教授に。大学で講義を受けたのは物理関係だけだった私が地学を教えるのは大変でした。心配した広岡さんが、福井大学で担当されていた科目の講義ノートをすべてコピーさせてくれた。このノートは私には使い切れなかったがどれほど心強かったことか。 1979年7月に川井先生が58歳で亡くなり、私にとっての先生は広岡さんだけになってしまった。
  富山大学と福井大学の学生が一緒になって伊豆半島にサンプリングに出かけたこともある。この時の富山大学の学生さんが先日の広岡さんの葬式に駆けつけてくれていた。
  何回も富山大学理学部の集中講義の講師に呼ばれた。講義は嫌いなのだが広岡さんと逢えるのが楽しみで毎回、引き受けた。私では広岡さんとほとんど同内容の講義しか出来ないのによく呼んでくれるなと感心していた。福井大学では私がいるので広岡さんを講師に呼ぶことは考えられなかった。私に大学院の科目の担当経歴をつけようとしてくれていたのだと後で分かった。福井大学での大学院新設にその経歴は役だった。
  広岡さんが理学部長の任期を終えられた時、今がチャンスと富山大学での藤井純子君の学位論文の審査を頼んだ。快く引き受けてくれた。2002年の3月に藤井君に理学博士号が授与された。
 
  2004年3月、富山大学を定年退職され大谷女子大学に。定年退職記念(2004年5月1日)のパーティーの帰り、無性に寂しかったことを思い出す。富山大学では学部長などの要職を歴任され多忙過ぎたので、池田市に戻られてからは奥様とゆっくりした生活を楽しんで下さいと願っていた。しかし、2007年に奥様が癌で北野病院に入院された。4月28日にてみ子と二人で病院に見舞いに行った。私の顔を見て奥様が「主人が中島君が来てくれたので喜んでいる」と言ってくれた。広岡さんは後に9月に呑んだ時、「家内が喜んでいた」と言ってくれた。その時はもう癌が脳に転移していた。何も出来ない虚しさをかみしめた。9月4日の朝、67歳で亡くなられた。広岡さんの悲しみの深さを思いつらかった。私や夏原君に出来ることは一緒に酒を呑むぐらいのことしかなかった。
 
  2009年6月の私の退職記念パーティに、主賓として元気に福井に出てきてくれた。時枝夫婦、鳥居、夏原夫婦、中村、乙藤、酒井、渋谷など親しい古地磁気研究仲間・後輩に囲まれご機嫌だった。福井大学で広岡さんと親しかった教員や学生の大多数にとって、このパーティが広岡さんに親しく接した最後となった。

  2011年9月、中村浩さんの奥様がなくなった。広岡、中島、夏原は通夜と葬式に富田林の竜泉寺まで出かけた。通夜の帰りには3人で梅田で呑んだ。葬儀の日、広岡さんと車で一緒に行くために石橋の阪大下で10時に待ち合わせをしていたが、いつになく時間がきてもこられない。心配していると転んでケガをしたので迎えにこいという電話。びっくりして迎えに行ったが葬式にはそのまま行くという。心配だったが、言い出したら他人の話は聞かない人なのでそのまま富田林に。葬式はなんとかやり過ごしたが、かなり消耗しきっておられたので中村さんに富田林の病院を紹介して貰う。そこでそれなりの検査・治療をして貰いどうにか池田の広岡宅に帰り着いたのが夕暮れでした。後で聞いた話ではその後も何回か転んでいたらしい。これがパーキンソン病の症状がでた最初だったのだろうと思っている。
 その後も研究会や呑み会で何度も楽しい時間を過ごしてきた。パーキンソン病でリハビリに病院に通っていると聞いてからは何となく呑みに誘うのにためらいがあった。そして突然の逝去。悔しく、もっと頻繁に逢っていればよかったと後悔ばかりの今です。

  広岡さんは川井先生亡き後、ずっと古地磁気研究分野の親分でした。サンプリングが大好きで色々計画し研究資金を獲得し、日本だけではなく世界各地に出かけました。子分の私もサンプリングは大好きでした。違いは私は最後まで自分で測定していましたが、広岡さんは多分自分で測定したことはなかったことだと思います。
 

  最後まで見事な生き方でした。自宅を改装した2世帯住宅で次男家族と過ごされていましたが、日常生活は何でも自力でこなされていたそうです。そして死の直前までお元気でした。延命のための医療・介護をまったく受けることなく逝かれました。

  ご苦労様でした。奥様とゆっくりおやすみ下さい。



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